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かくのたいそう

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

覚の体・相

 『大乗起信論』に次のように説明している。

 復た次には、四種のの義あり。虚空と等しくして、なお浄鏡の如し。云何んが四となすや。
 一には如実空鏡。一切の心と境界の相を遠離して、法の現ずべきものなく、覚照の義にあらざるが故なり。
 二には因薫習鏡。謂わく、如実不空にして、一切の世間の境界は悉く中に於いて現じ、出でず入らず、失せず壊せずして、常住の一心なり、一切の法は即ち真実性なるを以っての故なり。又、一切の染法の染する能わざる所にして、智体は動ぜずして無漏を具足し、衆生に薫ずるが故なり。
 三には法出離鏡。謂わく、不空の法は煩悩礙と智礙を出て、和合の相を離れ、淳浄の明なるが故なり.
 四には縁薫習鏡。謂わく、法出離に依るが故に、遍ねく衆生の心を照らして、善根を修せしめ、念に随って示現するが故なり。

 また次に、さとりそのものの様子は、次の四種の大きな意味を含む。それはさながら広々とした虚空のようであり、澄んだ鏡のようである。
 一つは、文字どおりに、空のように何もさえぎるものがなく、鏡のように澄明である、という意味である。主観と客観に分かれる前の様子であり、何も現われることがなく、覚知したり、照らし出すようなことはないのである。
 二つは、人々にはたらきかける清らかな鏡のようなものである。すなわち、文字どおりの空漠なものではなく、世の中のあらゆる事物が澄んだ鏡の中に現われ、出たり入ったりすることなく、なくなったり壊れたりすることなく、常に心がそういうふうにはたらいているのである。あらゆる存在は真実のあり方であるのにほかならない。したがって、いかなる煩悩も汚すことができないものであり、智慧そのものは不動であり、さとりをそなえて人々にはたらきかけるものである。
 三つは、汚れを払って清らかにする鏡のようであるという意味である。空ではないことをいうのである。煩悩や根本の無知の妨害から脱け出し、さとりとまよいが合わさっている状態を離れて、実に清らかに澄みわたり明るくなるからである。
 四つは、人々に機縁となってはたらきかける鏡のようであるという意味である。根本の無知から遠ざかり、広く人灸の心を照らし出して、善い行ないを教え、人々の思いに合わせてあれこれと示し現わすからである。