しゅう

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習とは、般若波羅蜜に随いて修習し、行観し、息まず、休まざる、是れを名づけて習と為す。譬えば弟子の師の教に随順し、師の意に違わざるが如きは、是れを相応と名づく。般若波羅蜜の如く、菩薩も亦た是の相に随い、智慧を以て観じ、能く得て、能く成就し、増さず減ぜざる、是れを相応と名づく。譬えば函蓋の大小相い称(かな)うが如し。般若波羅蜜は、諸の観法を滅すと雛も、而も智慧力の故に、名づけて『能わざる所無く、観ぜざる所無し』と為す。能く是の如く、二辺に堕せざることを知る。是れを般若と相応すと為す    〔大智度論巻36 T25-327a〕

と注釈する。  また

上には一日般若波羅蜜を修せぱ、声聞辟支仏に勝れりと説けり。是の因縁従り来って、仏は種々に菩薩を讃歎したもう。『是の如き功徳は、皆な般若波羅蜜より生ず』と。是の故に、今、云何に菩薩は、是の般若波羅蜜を習行して般若波羅蜜と相応するやと問うなり    〔T25-324a〕

と注釈する。