しゅっけとざいけ
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
出家と在家
出家とは家族と生活し生計を営む生き方を捨て、修行に専念すること、またはその人のことである。在家はその反対であって、すなわち、生計を営み家族と生活する世俗の人、またはその生き方のことである。
原始仏教・部派仏教における出家と在家を表わす語に四衆、七衆がある。比丘(bhikṣu、僧)、比丘尼(bhikṣuṇī、尼)、優婆塞(upāsaka、男性の在俗信者)、優婆夷(upāsikā、女性の在俗信者)が四衆。七衆はこれに沙弥(śrāmaṇera、出家して比丘になる前のもの、おもに未成年僧)、沙弥尼(śrāmaṇerī、女性の沙弥の状態)、式叉摩那(śikṣamāṇā、正学女、沙弥尼から比丘尼になる以前の2年間)を加える。四衆ないし七衆は、現実的仏教集団ではなかった。
具足戒を受けた比丘が比丘サンガの連帯を形づくり、比丘尼サンガを指導、従属させつつ、その両部サンガが伝持の中心となった。在俗者はこれに対する信者、支持者であった。大乗仏教の修行者をいう菩薩の語は出家在家を包括する。しかし歴史的には出家菩薩が中心となった。また大乗でも上記部派仏教での呼称が踏襲された。
原始・アビダルマ仏教
釈尊は29歳(『中阿含経』巻56など。19歳説もある)で出家された。サンガのあり方を定める律蔵では釈尊をもって仏教の比丘となった(自具足、自然無師。出家のとき、成道のときなど説が分かれている)はじめとする。律蔵の基本が確定した後は、十人サンガによる白四渇磨で比丘になることが認められた。出家(pabbajjā)とは和尚を得て沙弥となることであり、さらに、このルールによって具足戒(upasampadā)を受けて、はじめてサンガを構成する比丘となった。
仏教がまず出家サンガによって伝持された背景には、カーストから離脱してはじめて自立した共同体が構成できたこと、沙門を認める慣習が先行していたことがあげられよう。比丘尼サンガは比丘サンガと不即不離の地にあって、比丘サンガの絶対的指導下におかれた(八敬法など)。律蔵の規定を受けいれることで現実的連帯を維持した比丘・比丘尼に対し、在家は比丘・比丘尼を福田とし、三帰五戒を旨とし、生天を願う(施・戒・生天)ものとされた。
在家者が修行しさとりを得た例(AN.111)も説かれるが、阿羅漢には達しないとされた。
大乗仏教
菩薩という捉え方は出家、在家を包括し、修行の到達点にも差別がない(『大智度論』巻13)。男尊女卑の通念も否定する姿勢をもつ(変成男子、善男子・善女人など)初期の経典には担い手である菩薩が在家であったとみなされる記述(『般若経』で戒波羅蜜の内容に不邪婬を説く、『法華経』などで善男子・善女人と呼びかけるなど)があり、出家にしてもサンガの比丘とは別のあり方(『法華経』安楽行品など)が説かれる。
また法師(dharmabhāṇaka)という特有の呼称も出る。ただし、菩薩には出家が奨励され(『般若経』など)、のちにはサンガの具足戒を取りいれる(『瑜伽論』)。しかし、その持戒についての考え方はサンガとは異なるもの(『大般涅槃経』)である。