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どうしょう

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

じくどうしょうから転送)

道生

?-434 東晋から劉宋にかけて活躍した僧。俗姓は魏氏・彭城(現・江蘇省)生。

 竺法汰(じくほうた)(319-387)に従って出家。廬山慧遠の下で研鑽を積み、後、長安に赴いて鳩摩羅什に師事した。

道生の教説

 409年、建康(現・南京)に帰り、文辞にこだわらない自由な経義の研究によって「善不受報義」「頓悟成仏義(とんごじょうぶつぎ)」の新説を確立し、『二諦論(にたいろん)』『仏性当有論(ぶつしょうとううろん)』などの論文を著した。さらに、六巻泥洹経(ないおんきょう)に対する研究の結果、「闡提(せんだい)成仏説」(善根を断った人ですら成仏できるとする説)を主張し、このため建康の仏教界から激しい非難を浴びて追放され、一時、虎丘山(こきゅうさん)に逃れた後、再び廬山に入った。
 その後、曇無讖(どんむせん)(385-433)訳の四十巻本『大般涅槃経』を入手し、「悉有仏性(しつうぶっしょう)」の教義に接して自説への確信を強めた。
 彼の教説は、般若学の基礎の上に泥洹経・法華経の研究を結合し、真理の絶対性と普遍性を拠り所として「頓悟説」と「闡提成仏説」を主張した点に特徴があり、六朝後期の涅槃学の先駆となった。

道生の著作

 上記の論文の外、維摩経・法華経・泥洹経・小品般若経に対する義疏(ぎしょ)があり、このうち『法華義疏』が現存する外、僧肇の『注維摩詰経』や宝亮(ほうりょう)(444-509)の『大般涅槃経集解』に彼の経解釈が収載されている。
 彼の伝記は『出三蔵記集』(巻15)、『高僧伝』(巻7)に見え、慧琳(えりん)(5世紀中葉)の書いた誄(るい)が『広弘明集』(巻23)に収められている。

道昭

629-700年(舒明元-文武4年) 「道照」と表記している例がある。河内国(大阪府)丹比(たじひ)郡船連(ふねのむらじ)の出身。

 653年(白雉4年)入唐して、玄奘に師事し、法相教学を学ぶ。当時、玄奘はこの異国の学僧を大切にして、同室で暮らしながら指導したという。摂論教学を学んだという記録もあるが、摂大乗論に関する注釈は残っていない。
 玄奘の紹介で隆化寺の恵満に参禅し、経論若干をたずさえて帰朝。
 660年(斉明6)頃帰朝。法興寺(別名 飛鳥寺元興寺)の一隅に禅院を建てて住して、日本法相教学の初伝となった(南寺伝)。
 このとき将来した多くの経典類は平城遷都後、平城右京の禅院に移されて重用された。
 晩年は全国を遊行し、各地で土木事業を行った。

700年 遺命により、わが国で初めて火葬に付された。