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ぜったいそうたい

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

絶対相対・絶待相待

 相対とは、今日一般日常用語としては「むかいあうこと」「お互いに対立していること」「相互に関係をもっていること」などの意味で用いられている。その点では英語のrelativeの訳語として理解するのも適当であろう。しかし、これを少し学術的な立場で考えると、相対という語は絶対という言葉にたいするものとして用いられる。
 たとえば、アインシュタインによって説かれ、今日の物理学研究に一石を投じ大変革をよぎなくせしめた「相対性理論」〈The theory of relativity〉の相対性といわれる場合には、かつては時間と空間とをそれぞれ絶対とみたニュートン物理学の立場を変更して運動の相対性を論ずるというように、絶対の概念を否定する意味を示している。しかし、ここでは相対の概念の否定として絶対という言葉が用いられるのであるから絶対と相対とは、かえって相対的な言葉として用いられているといってもよいであろう。その点、絶対は相対に対する絶対という領域にとどまっている。
 ところが、絶対という言葉を相対にたいする語としてではなく、一切を超越していることであるとする場合もある。それは正しく絶対そのことである。absolutenessのabsoluteという言葉が示すように「……から解き放される」という意味であり、あるいはabとは「……から離れ他と関係をもたないこと」を意味する接頭字であり、soluteはsolutusでsolusでもあるから、「単独で存在するもの」「それ自身で存在するもの」という意味で、それは「凡てのものと関係をはなれている単独者」をいい、それこそキリスト教でいう世界の創造者としての神そのものである。
 したがって、このような絶対者は超越者であり、支配者であり、独存者である。この点、絶対は相対を絶したものとして超越の意味をもつのである。すなわち、この場合の絶対とは「何らの条件もしたがわないもの」「何ものにも制約されないこと」「他に対立するものがないこと」などの意味である。したがって、この絶対に対して相対とは「相互に関係しあうこと」を意味している。

 次に、相待の語は中国の文献にも古くから用いられているようであり、「久相待也」といわれる。それにたいする註釈では「それ友久しく下位にありてのぼらず、己れは則ちこれを待って乃ち進むというなり」という。これは相手をまって、相手と共に昇進するという意味であろうが、このような意味での相待は、いわゆる「あい待つ」という意味で、後に述べる仏教での相待とは、趣を異にするようである。

 さて、次にそれでは仏教用語として相対、絶対とは何を意味しているのであろうか。また、相待、絶待とはどのようなことをあらわすために用いられる文字であるのだろうか。これらの文字には、前にのべた一般日常用語としての意味とは異なった理解があり、しかも、それは仏教の根本思想と深くかかわっているのである。

 まず、仏教用語としての相対についてみよう。たとえば空有相対五重相対などの用語がある。この場合はとを並べ比較することであるし、五重相対の場合も五段にわけて比較することを相対といったのである。いま、五重相対とは日蓮教義で説かれることであるが、それは全仏教を分別し批判するために立てられたものである。その五重とは内外、大小、権実、本迹、教観の五重であるが、この五項目を内外相対、大小相対などとよぶのである。
 すなわち、内外相対とは仏教と仏教以外の教えとを比較することであり、大小相対とは、その仏教の中で大乗教と小乗教とを相対せしめるのである。このようにして、権実相対とはその大乗教の中で権教と実教を分別し較べ、さらに実教について、それを法華経の教えとして、その中で本門迹門とを分別し比較するのが本迹相対である。
 最後にその法草本門の教えについて教相と観心とを相対せしめ、末法時機相応の教えとしての法華の教えの中心が経の文底の観心にあるとするのである。このように相対とは、自らの立場を明らかにするため、他と比較し他を批判することを意味している。
 以上のように、ここでの相対とは、それぞれのものが相い対立するという意味よりも、上下、優劣を比較するという意味あいが強く含まれている。したがって、この意味での相対は梵語のpratispardhin「競争相手」と相応する訳語とみることもできる。

 次に、相待という文字の用例とその意味を考えよう。仏教において、この相待という語は、文字通り「あいまつ」という意味で縁起という語と同じ意味をもっている。すなわち、「あいまつ」というのは、事物は相互の関係の中で、始めて、その事物の個としての意味が確立するので、個々の事物がまず個として存在し、それが相互に関係しあっているのではないというのである。
 個人が集まって社会を形成していることはいうまでもない。しかし、社会が構成されなければ、個は他に対する自己の意味をもちえない。とすれば、個が個と確立するのは、社会という関係の場においてであるといわねばならないだろう。自は他に対して自であるより、他をまって自となるのである。他もまた自に対しての他というより、自によって他となりうるのである。このように彼は此により、此は彼による。これを相待というのである。したがって、相待とは相互に相手をまって、初めてそれぞれ自となりうるということを意味している。
 たとえば、相待仮という言葉があるが、それは一切の存在は本来みな無自性であり、空である。しかし、それらは依存によって、空のまま有となっているのである。このように空即有、有即空であるのだから、このような相待関係を離れてしまえば、そこにはただ仮名のみがあるというのである。

 ところで、ここに仮名とは梵語のプラジュニャプティ〈prajJapti〉であり、それは名ばかりで実体のないことをいうのである。すなわち、一切の存在は本来的に無自性であり、何らの固定性をもたないものであり、どうにでも関係の中で変化するものである。
 たとえば、一人の女性はまず男性にむかって女性である。次いで、両親にむかっては娘であり、夫にむかっては妻であり、子にむかっては母である。このように全く相待なのである。しかも、そのような相待の中で、それぞれの立場を明らかにしながら、それぞれの意味をもって存在しているのである。
 このように相待であることは、それぞれが、それ自ら無自性空のままで縁起の有となっていることを示すのである。また相待有といわれる場合には、長短、此彼の如く、長にむかって短、短にむかって長、此は彼にむかって此であり、彼は此にむかって彼であるというように、物それ自体が長でも短でも、此でも彼でもなく、みな本来無自性なのであり、相依によって相成である。このようなのを相待というのである。この点で、この相待は梵語のapekSaの訳として考えることができるのであろう。

 人間が人間として基本的人格や人権をもっていることは、いうまでもない。しかし、このような基本的人格や人権は絶対視されてはならない。個人はいかほど尊重されても、尊重されすぎることはない。しかし、このような基本的な人権にしても人格にしても、共に相互依存の社会の中で成立するものであることを忘れてはならない。
 さて、このような相待が現実の真の姿であるという基本的な考え方が、この現実を相待のまま絶待であると説くことになるのである。絶待とは、この場合、一切の対立をこえているという超越の意味ではなく、それは一切を自己の内容としているという包含の意味である。いな包含という言葉自身には包含するものと包含されるものという区別が考えられるから、包含という言葉自身不適当でもあるが、そこでは相待のままが絶待であり絶待のままが相待なのである。相待即絶待、絶待即相待である。しかしそれは矛盾の自己同一という考え方ではない。この場合相待と絶待は矛盾概念ではないからである。

 ところで、このような相待絶待の語は教学上では、天台大師智顗の『妙法蓮華経』の妙の解釈のうえに説かれ、それによって一般仏教学の中に注意されてきたといえるであろう。そこでは、法華経以前の諸経と較べて法華経のみが一乗微細の法であることを相待妙、法華経の中に一切の諸経を含めてしまって一経の円妙なることをあらわすのが絶待妙といわれるのである。その点、絶対とは絶言絶思であり、法の対比すべきものがなく、不可思議、不可称量である。「待すべきところなく、また絶するところなし、知らず何とか名づけん、強いて言って絶となす」といわれる。しかし、相待妙によらなかったら絶待妙を証することはできないし、相待妙に達することが、そのまま絶待妙を証することであるから、このような相待、絶待こそ仏教の根本義を示すものであるといえよう。

 因みに以上のべた絶対は超越、絶待は包含、さらに絶体は絶体絶命の意味とみれば、相対は個々の対立比較をいい、相待は相依相成の縁起の意味を示すといってよいであろう。