ちょうげん
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重源
1121年 - 1206年。鎌倉初期の浄土宗の僧。俊乗房と号する。紀季重(きのすえしげ)の子で、重定(しげさだ)と称した。
1133年(長承2)醍醐寺で出家し、密教を学ぶ。また高野山に登り、法然(源空)に就いて浄土教を研究するとともに、大峯、熊野、御嶽(おんたけ)、葛城(かつらぎ)など深山幽谷を踏破して修行した。
1167年(仁安2)入宋、栄西とともに天台山に登り、浄土五祖像を将来する。
1181年(養和1)造東大寺大勧進職となり、南無阿弥陀仏と号し、広く諸国を勧化(かんげ)して、平氏焼討ち後の東大寺復興の造営にあたった。
1191年(建久2)には法然を東大寺に招き、南都諸宗の学匠に浄土三部経の講義を開いた。
建永(けんえい)元年6月5日に86歳で没する。
社会事業
周防(山口県)阿弥陀寺、播磨(兵庫県)浄土寺、伊賀(三重県)新大仏寺をはじめ、各地に堂宇を建立するとともに、備前(岡山県)の船坂山を開き、播磨の魚住泊(うおずみのとまり)の修築、摂津(大阪府)渡辺橋・長柄(ながら)橋などの架橋、河内(大阪府)狭山池の改修、湯屋(ゆや)の勧進を行うなど、西大寺の叡尊、極楽寺の忍性と同様に社会救済事業に尽くした。