操作

ほうし

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

法師

dharma-bhāṇaka; dharma-kathika (S)「ほっし」ともよむ。

 説法者。布教師。教えを説く人。衆生を導く僧。〔倶舎論18〕〔法華経1、T-94a〕〔宝性論、T13-821b〕

 「bhāṇaka」自体は、音楽や手品や語りなどの芸に生きつつ民衆の間をさまよういわば旅芸人のことである。中世日本での、諸国を遊行して歩いた、勧進聖念仏聖・歩き巫女といった存在に近い。

 讃仏運動のなかで、仏塔崇拝は大きな位置を占めた。そこでの財産管理も必要であり、仏塔管理は厳しい戒律のもとで集団生活をする純然たる出家ではなく、本格的な出家ではなく、簡単な戒律を保ちながらたんなる在家ではない(非僧非俗)人たちがいた。その管理者のなかから、仏塔巡拝の大衆に向かって、仏伝文学をもとにして仏の偉業をたたえ、仏の奇跡を説いて語る専門家が生まれた。やがて、かれらは出家になりかわって在家巡拝者たちに、かれらの心にうまくフィットする教えを説くようになった。それが法師と呼ばれた。
 そのかれらは、ときに大衆部系の出家たちの智慧を使い、独自の大乗の教えを練り上げていった。

 菩薩道としての十地における法師の責務は『十地経』に詳しい。『法華経』法師功徳品では、受持・読・誦・解説・書写する者、すなわち五種法師があげられ、その諸功徳が示される。〔法華経 法師功徳品、T9-30〕

 仏法を知る人。「janā dharmāvasthāvidaḥ」〔廻諍論、T32-16b〕
 法を修行して一切衆生の師範となるを云ふ。〔『金般講』8〕

〔キリシタン版『平家物語』(108)によると、「三井寺法師」を「みいでらぽうし」、奈良法師を「ならぼうし」(294)とよむ。〕

大乗仏教の法師

 釈尊の説法は、『阿含経』にまとめられて、各部派に伝持されたのであった。しかし、仏滅(釈尊の入滅)後3、400年ぐらい経って、新たな「仏説」が、まことしやかに弘められていく。『般若経』『華厳経』『法華経』『無量寿経』といった経典が、釈尊の説法として宣布されていくのである。それは、新しい仏教の出現であった。正統的な部派教団としては、考えられない、仏教の《新興宗教》の出現であった。いうまでもなく、この新しい仏教を、大乗仏教という。というより、新仏教の担い手は、みずからの仏教を「大乗」(偉大な教義)と呼び、旧来の仏教を「小乗」(劣った教義)といって非難したのである。
 仏滅後400年近くも経ってのちはじめて現れた経典が、そっくり釈尊の説いたものでは当然あり得ない。そこに釈尊の直説が核として含まれていたり、釈尊の精神が横溢していたとしても、これを編み、制作した者は、当時の何者かであったことは否めない。それは、部派仏教のなかの修行者の一部の特殊なグループだったのか、それともまったく部派の外にいた求道者のグループなどだったのか、あるいは両者の協同になったのかもしれず、確かなことは何も判らない。作者を示唆することもない大乗経典の出現は、まことに不思議の出来事である。
 ただし、これらの経典(経典ごとに、制作者グループが別々にあったのであろう)を人々に説いて聞かせた者たちについては、見当がついている。それは、主に法師と呼ばれる者たちであった。かれらはけっして、正規の出家僧ではあり得なかった。インド社会の宗教に関する制度のなかでいえば、いわば落ちこぼれであり、卑しめられ、体よく利用される周縁に属していた。もっともバーナカのなかにも、教養もあり、品位を失うまいとする者もいたであろうし、一方、あまり感心できない行状の者もいたであろう。いずれにせよ、民衆の心のひだを伝い歩くバーナカたちが、大乗経典を語り歩いていくのである。

 バーナカのなかには、『阿含経』を語るバーナカ、釈尊の過去世物語すなわち本生譚(ジャータカ)を語るバーナカなど、さまざまなバーナカがいたらしい。しかし、『般若経』などの、今までは見たこともない「仏説」に出会うと、バーナカたちはこぞってその新しい教え、あるいは真理すなわちダルマを語るようになるのであった。
 民衆の心の琴線に触れるものは何か、人間の真実とは何か、真の宗教とは何か、そうしたことを身をもって体得していたバーナカたちは、大乗の新しいダルマこそ、人々に語るに足る、真実で深い教えだと直感したのであろう。もちろん、その背景には、正統的な部派教団の制度化された僧ら、その実、形骸化した権威のみを笠に着る僧らに対する、秘めた対抗意識もあったにちがいない。大乗運動は、そうした正統教団の体制からはやや脱落した人々によって、民衆を巻き込みながら展開されていくのであった。
 したがって、旧来の仏教僧からすれば、ダルマ・バーナカ=法師らは、どこの馬の骨とも知れないいかがわしい存在であり、公的権威をもたない新奇な教えを説く迷惑な存在であり、しかし痛いところを見事に衝いてくる厄介な存在であったろう。部派教団やそれと緊密な関係を結んでいた在家の支配層らは、当初、新興の大乗運動を目の敵にし、言論や力でもってさえ対抗しようとしたであろう。事実、法師らはいたる所で攻撃の的となりかねなかったのである。『法華経』などが、法師への献身を説いたり、誇法(大乗の正しい教えを非難・中傷すること)を重罪とするのは、そういう状況によるものであった。
 『法華経』勧持品には、

 ヤクシャ(夜叉)のような姿の多くの僧たちが、われらを罵るであろう
 僧院から追われ、数々の悪口を色々と言われようとも、われらは言葉に出すことなく、顔をしかめながらも、幾度でも、すべてを忍ぼう。〔岩波文庫『法華経』〕

とある。また、やはり『法華経』に、常不軽菩薩(常に相手を軽んじなかった菩薩)という名の菩薩が、そうした大乗仏教に敵意を抱く人々からどんなに罵られようと、棒で叩かれたり石を投げつけられたりしようと、ひたすら「あなたは仏となる方です」といって合掌礼拝した〔『法華経』常不軽菩薩品〕とあるのは、かえって大乗運動を進める者たちの、そうした者たちに対する深い愛情を表していよう。