密教
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密教
顕教に対する語で、最も深遠な境地に到達した者以外には窺うことができない秘密の教えを意味する。
身に印を結び口に真言を唱え意に本尊を観じて、現実の事象そのものに宇宙の真相を見いだし、自己がそのままに仏であるという体験を得ることを説くもので、純正な密教は、法身の大日如来が自らの眷属のために説いた身口意三密の法門であるとして、これを純密といい、大日如来以外の諸尊の真言や修法を説くものを雑密という。
密教の萌芽は原始仏典のうちにも認められ、パーリ律蔵における守護呪や大会経(長阿含経所収)に説法の聴衆の名をつらねているのは、陀羅尼や受茶羅の起源であるといわれる。
そののち毘沙門天王経や孔雀明王経などの雑密経典が作られるようになり、孔雀王経や潅頂経は4世紀初めに東晋の帛尸梨
蜜多羅(はくしりみったら)によって中国に伝訳された。7世紀後半に至り、ヒンドゥー教の影響下において、おそらくは華厳経の思想をうけて大日経が成立したが、この経は大日如来を中心として諸尊を位置づけ、胎蔵法として密教の理論的根拠を確立した。
ややおくれて瑜伽行派の系統をひく金剛頂経が成立したが、この経は心識説を中心に五相成身の観行を説き、金剛界として密教の実践的方法を組織化した。8世紀に、大日経は善無畏により、金剛頂経は不空によって、それぞれ中国に伝訳され、9世紀の初め空海が日本に伝えて、両経を根本聖典として真言宗を開いた。
インドでは、両経を一具とする思想はなく、大日経が金剛頂経に発展吸収される形となり、金剛頂経の系統をひく後期密教が栄えた。
- 注:日本真言宗の伝統教学で金剛乗という場合は純密を指し、これとは別である
後期密教は、タントラ仏教ともいわれ、金剛頂経に見られる大楽思想に基づき、ヒンドゥー教の性力(シャークタ zaakta)派の説をとり入れて、人間の愛欲を肯定する傾向が強く、パーラ王朝の外護の下に、ナーランダー寺やヴィクラマシラー寺などを本拠にして栄えたが、13世紀初頭にイスラム教徒のために滅ぼされた。この教はシャーンタラクシタ(zaantarakSita、寂護)やパドマサンパヴァ(padmasaMbhava 蓮華生)らによって8世紀の中頃にチベットに伝わり、ラマ教とも俗称されるチベット仏教の根幹となった。
なおこの系統の経典の一部分は10、11世紀に中国に伝訳されたが、大きな影響は与えていない。