だいにちにょらい
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
大日如来
真言密教の教主。大日とは「偉大な輝くもの」という意味であり、サンスクリット語マハーバイローチャナMahāvairocanaの訳で、摩訶毘盧遮那(まかびるしゃな)と音写する。
元は太陽の光照のことであったが、のちに宇宙の根本の仏の呼称となった。『大日経』『金剛頂経』など真言密教のもっとも重要な経の教主である。
思想史的には『華厳経』の毘盧遮那如来が大日如来に昇格したものと推定されるが、前者は経中で終始沈黙しているのに対し、後者は教主であるとともに説主でもある。
通常、仏の悟りそのものの境地は法身といわれ、色も形もないから説法もしないが、大日如来は法身であるにもかかわらず説法し、その説法の内容が真言(語)、印契(身)、曼荼羅(意)である。法身大日如来がこのような身・語・意の様相において現れているのが三密加持であり、これが秘密といわれるのは、この境地は凡夫はもちろんのこと十地(菩薩修行の段階を52に分け、そのなかの第41から第50位)の菩薩もうかがい知ることができないからであるとされる。しかし真言行者は瑜伽観行によってこの生においてこの境地に至るとされ、これは大日如来と一体になることを意味する。ゆえに大日如来は究極の仏でありながら衆生のうちに内在する。仏の慈悲と智慧の面から胎蔵界・金剛界両部の大日が説かれる。
大日如来
Mahāvairocana-tathāgata (S); rnam par snang mdzad chen po (T)
大日如来の名で呼ばれる仏の性格は、直接には大乗仏教の法身思想の帰結として、さらにさかのぼれば、原始仏教、部派仏教以来の仏陀観を背負いつつ成立したものである。原名の「ヴァイローチャナ」は「あまねく照らす」(vi-√ruc)から派生した言葉であり、その点では、金剛智が、「最高顕広明眼蔵如来」と訳した(『金剛頂義訳』巻上)ほうが、原語の意を忠実に伝えているといえる。西方を仏国土とする阿弥陀仏の思想と同じく、大日如来の思想のなかに、仏教以外の西方的要素を指摘する学者もいるが立証は困難である。仏教内だけでも、その思想的源流はある程度まで遡及可能である。
密教経典で無限定に「世尊」「如来」といったときは、大日如来、摩訶毘盧遮那如来を指すのが普通であるが、このこと自体、大日如来の思想的源流が、歴史的仏陀のなかにあったことを物語っている。釈尊の存生の時期にあってさえ、「仏」は時空を超えた永劫の存在と見る考えは強く、その説く法は、仏の出世・不出世にかかわらず「不断法」と考えられていた。法が不断であれば、その法を説く仏も当然不断であり、眼前の「生身」の釈尊を仰ぎつつ、僧侶のあいだに「法身」の釈尊を思う心ははやくから胚胎していたものと思われる。その表われの一つが、釈尊は、現生の化身を得る以前に、無数の求道の生涯をもったと考える「前生證」(jātaka)の発想であり、他の一つは、この世界に出現した歴史的仏陀である釈迦族の聖者(Śākyamuni, 釈迦牟尼)は、過去荘厳劫における三仏、現古賢劫における三仏のあとをうけて、この世に出現したと考える「過去七仏」の思想であった。歴史的仏陀の出現は、決して一回性のもの、偶然的なものでなく、もっと全人類的な必然性をもつという思想である。それは、釈尊の出現に宿命的な意志を感じた表われともいえよう。かかる「過去仏」の思想は同時に「未来仏」の思想を産み、さらに、無数の「ジャータカ」、すなわち、釈尊の前生話を生みだした。
密教の仏陀論の淵源が、このような「歴史的仏陀の脱却」あるいは「新たなる歴史性の付与」にあると見るのは、密教研究のうえでもきわめて古い歴史を有するものであった。『秘密仏教』の著者シンネットは、釈尊とは、衆生済度のために、仮の住所として人間のかたちを借りた覚れる心であったとしている。シチェルバツキーや姉崎正治は、大乗仏教にいたって仏陀はその抽象性を増して「宇宙神的」になるとともに、具体性をも増して、あらゆる現象のなかに仏が仮現するにいたったことに注目している。ここにおいて、仏は歴史性と具体性を超克するとともに、いかなる歴史的条件のもとでも、いかなる具体的仮現もとれるようになった。密教の大日如来は、すでに眼前に
あるといってよかった。
大日如来の基本的性格は、絶対的な統一原理の人格化と、その無限な具象化という二つの性格につきるといってよい。従来の瑜伽行唯識派系の仏身論でいえば、宇宙的原理の人格化されたものが法身であり、法身の、一定の条件下における化現が、応身・化身であり報身であるとすればであるとすれば、大日如来は、最も完全な意味での法身であり、すべての報・応・化身らのもとであるといってよい。この仏身論の展開を、中観系、法華経系の仏身論の基準から見れば、最も完全な意味における「久遠実成」の仏陀であり、従地湧出品にいう四菩薩一上行・無辺行・浄行・安立行一のより完全な出現である。ここでは空と仮は不二にして二であり、二にして不二(不二而二・二而不二)と示されるが、「胎蔵界マンダラ」において示される中尊の大日如来と、初重・二重・三重・最外院の仏たちとの関係が、まさに「不二而二」にして「二而不二」の関係なのであった。だから、たとえ、最外院にあって、羅睺・計都のごとく醜悪の相を示す異形の鬼類であろうとも、その本質(マンダ)においては、中尊の大日如来といささかの相違もない価値(同一法然位)のうえに立ち、まさに輪円具足(ラ)している(マンダラ)。従地湧出品の偈に、「蓮華の水に染まらないように、今ここに、彼らは大地より湧出して来る」(不染世間法・如蓮華在水・従地而湧出という句があり、菩薩のあり方を蓮華を借りて説いているが、この蓮華こそ美しい花(仏)と、それを生ぜしめる現実(泥)とを象徴するもので、まさに『妙法蓮華経』の経題にもつらなる重要思想なのであった。従来の仏身論は、仏身論に精力的にとりくんだのが主として瑜伽行唯識系の学匠たちであったためもあり、法・報・応の三身論の開合によってする解釈をもって、そのすべてであるとする弊があった。瑜伽行唯識系の経論に展開される仏身論については、おおむねそれで大過なく説明がつく。密教でいえば、『金剛頂経』の仏身論、「金剛界マンダラ」九会の説明、さらに、日本密教において発達した「四種法身説」は、『大日経』にその典拠を求めることは無理で、異本『即身義』にいう通り、『金剛頂分別聖位経』、『金剛頂瑜伽瑜祇経』にその典拠を見るべきである。五智を五仏に配し、頂点に、大日如来の「法界体性智」をおく考えも、『金剛頂経』の琉伽行唯識系の思想性をよく表わしている一例である。これに対して『大日経』系の経論、「胎蔵界マンダラ」は、むしろ久遠の仏の実成を説く、法華・般若・中観系の仏身論を強く受けついでおり、中尊の大日如来に、上行などの四菩薩を彷彿させる十六大菩薩の供養が加わって、無限の活動が約束されるとする。一身説の展開の傾向が強い。ここに後世「本加両身説」や「大釈同異説」の種子が胚胎していたといえよう。