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むじしょう

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

無自性

niḥsvabhāva निःस्वभाव (skt.)

 それ自身で孤立的に存在する本体もしくは独立している実体を「自性」といい、それを否定して「無自性」が説かれる。
 自性を立てて「」(dharma)の体系を確立した説一切有部に対し、龍樹は主著『中論』において、相依(そうえ)・相待(そうたい)の縁起説を新たに展開し、その理論により自性を根底から覆して無自性を徹底させ、ここに自由で広大な「」のありかたが浸透する。
 「無自性 = 空」は、実体的な思考を排除すると同時に、いっさいのとらわれのない悟りの境地を如実に示す。

 実体=自己存在=自性は、ものを考えるひとに、ものを考える場合に、つねについてまわる。しかもなお、それを否定したところに無自性がひろがり、空がひらかれる。
 その自性を無自性に転換させるのが、縁起(pratityasamutpāda)という考えである。もともと縁起という思想は、初期仏教以来、その中心思想とみなされていた。しかし、縁起という術語そのものは古く、重要ではあったけれども、それが無自性につらなり、さらに空に発展するものではなかった。たとえば、ある存在にはそのものの自性があり、そこにそれ自身のいわば個性があって、それと関係しあうというほどに考えられていた。

 「空なるもの」の一般的な規定は、龍樹の『論争の超越』(廻諍論)に見られるように、「すべてのもの(法)は空なるものである。なぜならば自性がないからである」といわれる。自性を欠いているゆえに空なのであって、空であるゆえに自性を欠いているのではない。
 「自性を欠いている」(niḥsvabhāva)は、しばしば「無自性である」と訳されてきた。この場合、「無自性」という語は、「自性(svabhāva)を欠いたもの」を意味するのであって、「無という自性」のことでもなければ「無自性性」(自性を欠いていること)の意味でもない。