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(諸法無我)
 
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'''諸法無我''' (しょほうむが、sarva-dharma-anaatman सर्व धर्म अनात्मन्)
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 [[さんぼういん|三法印]]・[[しほういん|四法印]]の一つ。[[ういほう|有為法]]だけでなく、[[むいほう|無為法]]を含めてすべての存在には、主体とも呼べる[[が|我]]がないことをいう。[[しょぎょうむじょう|諸行無常]]といわれるように、一切のものは時々刻々変化している。ところが我々は、変化を繰り返し続ける中に、変化しない何者かをとらえようとしたり、何者かが変化してゆくのだと考えようとする。その変化の主体を想定してそれを'''我'''(が)という。
  
'''我'''とは「常一主宰」のものと言われる。常とは常住、一とは単独、主宰とは支配することである。ゆえに、この「我」は常住である単独者として何かを支配するものをいう。<BR>
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 '''我'''とは「常一主宰」のものと言われる。常とは常住、一とは単独、主宰とは支配することである。ゆえに、この「我」は常住である単独者として何かを支配するものをいう。<BR>
インド古来の考え方は、変化するものに、主体としての変化しないものを想定した「有我論」(うがろん)である。仏教は、存在とは現象として顕われるのであり、変化そのものであり、変化する何者かという主体をとらえることはまちがいであると指摘する。そのような妄想された「我」に執着する執着を破るために'''諸法無我'''が説かれた。一般に有我論が説かれている最中、'''釈迦'''だけが主張した、'''仏教'''の特色である。
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 インド古来の考え方は、変化するものに、主体としての変化しないものを想定した「有我論」(うがろん)である。仏教は、存在とは現象として顕われるのであり、変化そのものであり、変化する何者かという主体をとらえることはまちがいであると指摘する。そのような妄想された「我」に執着する執着を破るために'''諸法無我'''が説かれた。一般に有我論が説かれている最中、'''釈迦'''だけが主張した、'''仏教'''の特色である。
  
これは、インド在来の実体的な「我」の存在の否定であると同時に、あらゆる存在に常住不変の実体のありえないことを主張する。<BR>
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 これは、インド在来の実体的な「我」の存在の否定であると同時に、あらゆる存在に常住不変の実体のありえないことを主張する。<BR>
われわれは、しらずしらずの間に私自身の現存在を通じて、そこに幼い時から成長して現在にいたるまで肉体や精神の成長変化を認めながら、そこに私である実体的「我」を想定し、成長変化してきた私そのものをつかまえて、私は私であると考える。しかし、それこそ[[がしゅう|我執]]なのである。<br>
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 われわれは、しらずしらずの間に私自身の現存在を通じて、そこに幼い時から成長して現在にいたるまで肉体や精神の成長変化を認めながら、そこに私である実体的「我」を想定し、成長変化してきた私そのものをつかまえて、私は私であると考える。しかし、それこそ[[がしゅう|我執]]なのである。<br>
'''諸法無我'''は、この過った考え方をしりぞけて、変化をその変化のままに、変化するものこそ私なのだとに説くのである。この意味で、'''諸法無我'''は、自己としてそこにあるのではなく、恒に一切の力の中に関係的存在として生かされてあるという、[[えんぎ|縁起]]の事実を生きぬくことを教えるものである。<br>
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 '''諸法無我'''は、この過った考え方をしりぞけて、変化をその変化のままに、変化するものこそ私なのだとに説くのである。この意味で、'''諸法無我'''は、自己としてそこにあるのではなく、恒に一切の力の中に関係的存在として生かされてあるという、[[えんぎ|縁起]]の事実を生きぬくことを教えるものである。<br>
一切のものには'''我'''としてとらえられるものはない。これを徹底して自己について深め、目に見えるもの見えないものを含めて一切の縁起によって生かされてある現実を生きることを教えている。このような共々に生かされて生きているという自覚の中にこそ、他者に対する[[じひ|慈悲]]の働きがありうるのである。
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 一切のものには'''我'''としてとらえられるものはない。これを徹底して自己について深め、目に見えるもの見えないものを含めて一切の縁起によって生かされてある現実を生きることを教えている。このような共々に生かされて生きているという自覚の中にこそ、他者に対する[[じひ|慈悲]]の働きがありうるのである。
  
はじめに、有為法だけでなく、'''無為法'''を含めてすべての存在には、主体とも呼べる'''我'''がないというのは、他の宗教に言われるような「神」などの絶対者もまた'''無我'''であることを言う。これは、絶対者の否定ではなく、「神」などが我々との関係の上にのみ存在することを意味している。[[ぶってん|仏典]]の中にも「神」が出てくる場面が多いが、絶対者としての神ではなく、縁起によって現れたものと見るべきであろう。その意味で、仏教は他の宗教と根本的な違いを持っている。
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 はじめに、有為法だけでなく、'''無為法'''を含めてすべての存在には、主体とも呼べる'''我'''がないというのは、他の宗教に言われるような「神」などの絶対者もまた'''無我'''であることを言う。これは、絶対者の否定ではなく、「神」などが我々との関係の上にのみ存在することを意味している。[[ぶってん|仏典]]の中にも「神」が出てくる場面が多いが、絶対者としての神ではなく、縁起によって現れたものと見るべきであろう。その意味で、仏教は他の宗教と根本的な違いを持っている。

2020年8月20日 (木) 15:44時点における最新版

諸法無我

sarva-dharma-anātman सर्व धर्म अनात्मन्

 三法印四法印の一つ。有為法だけでなく、無為法を含めてすべての存在には、主体とも呼べるがないことをいう。諸行無常といわれるように、一切のものは時々刻々変化している。ところが我々は、変化を繰り返し続ける中に、変化しない何者かをとらえようとしたり、何者かが変化してゆくのだと考えようとする。その変化の主体を想定してそれを(が)という。

 とは「常一主宰」のものと言われる。常とは常住、一とは単独、主宰とは支配することである。ゆえに、この「我」は常住である単独者として何かを支配するものをいう。
 インド古来の考え方は、変化するものに、主体としての変化しないものを想定した「有我論」(うがろん)である。仏教は、存在とは現象として顕われるのであり、変化そのものであり、変化する何者かという主体をとらえることはまちがいであると指摘する。そのような妄想された「我」に執着する執着を破るために諸法無我が説かれた。一般に有我論が説かれている最中、釈迦だけが主張した、仏教の特色である。

 これは、インド在来の実体的な「我」の存在の否定であると同時に、あらゆる存在に常住不変の実体のありえないことを主張する。
 われわれは、しらずしらずの間に私自身の現存在を通じて、そこに幼い時から成長して現在にいたるまで肉体や精神の成長変化を認めながら、そこに私である実体的「我」を想定し、成長変化してきた私そのものをつかまえて、私は私であると考える。しかし、それこそ我執なのである。
 諸法無我は、この過った考え方をしりぞけて、変化をその変化のままに、変化するものこそ私なのだとに説くのである。この意味で、諸法無我は、自己としてそこにあるのではなく、恒に一切の力の中に関係的存在として生かされてあるという、縁起の事実を生きぬくことを教えるものである。
 一切のものにはとしてとらえられるものはない。これを徹底して自己について深め、目に見えるもの見えないものを含めて一切の縁起によって生かされてある現実を生きることを教えている。このような共々に生かされて生きているという自覚の中にこそ、他者に対する慈悲の働きがありうるのである。

 はじめに、有為法だけでなく、無為法を含めてすべての存在には、主体とも呼べるがないというのは、他の宗教に言われるような「神」などの絶対者もまた無我であることを言う。これは、絶対者の否定ではなく、「神」などが我々との関係の上にのみ存在することを意味している。仏典の中にも「神」が出てくる場面が多いが、絶対者としての神ではなく、縁起によって現れたものと見るべきであろう。その意味で、仏教は他の宗教と根本的な違いを持っている。