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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

 
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玄奘 (げんじょう、Xuan zang、602年-664年)<br>
 
玄奘 (げんじょう、Xuan zang、602年-664年)<br>
 
:「玄弉」の文字を使うのが正しいが、通常コンピュータ上では上記のように表記されている。<br>
 
:「玄弉」の文字を使うのが正しいが、通常コンピュータ上では上記のように表記されている。<br>
 中国、唐代初期の仏教僧。インドへの求法僧で、一般には[[三蔵法師]]として知られる。<br>
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 中国、唐代初期の仏教僧。インドへの求法僧で、一般には[[さんぞうほうし|三蔵法師]]として知られる。<br>
 
 俗姓は陳氏。洛陽に近い陳留郡(河南省)誠氏県に生まれた。<br>
 
 俗姓は陳氏。洛陽に近い陳留郡(河南省)誠氏県に生まれた。<br>
 
* 13歳のときに出家し、兄の長捷のいた洛陽の浄土寺に住んで経論を学ぶ。
 
* 13歳のときに出家し、兄の長捷のいた洛陽の浄土寺に住んで経論を学ぶ。
 
* [[618年]] 隋・唐王朝交代期に、兄とともに長安に入るが、兵乱のため講義がなかったので、蜀(四川省)の空慧寺に入った。<br>
 
* [[618年]] 隋・唐王朝交代期に、兄とともに長安に入るが、兵乱のため講義がなかったので、蜀(四川省)の空慧寺に入った。<br>
* [[622年]](武徳5年)に具足戒をうけ、成都から草州、相州、趙州をへて長安に戻り、大覚寺に住んで道岳、法常、僧弁といった学僧から[[倶舎論]]や[[摂大乗論]]の教義を受けた。しかし、多くの疑義を解決することができず、本場の学者から''[[瑜伽師地論]] ''を学びたいと、インド留学を決意した。当時、唐の法律では国外への旅行が禁止されていたので、僧数名とともに願書を出したが却下された。<br>
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* [[622年]](武徳5年)に具足戒をうけ、成都から草州、相州、趙州をへて長安に戻り、大覚寺に住んで道岳、法常、僧弁といった学僧から[[くしゃろん|倶舎論]]や[[しょうだいじょうろん|摂大乗論]]の教義を受けた。しかし、多くの疑義を解決することができず、本場の学者から''[[ゆがしじろん|瑜伽師地論]] ''を学びたいと、インド留学を決意した。当時、唐の法律では国外への旅行が禁止されていたので、僧数名とともに願書を出したが却下された。<br>
 
* [[629年]](貞観3年)国禁を犯して求法の途についた。<br>
 
* [[629年]](貞観3年)国禁を犯して求法の途についた。<br>
 
* 高昌国王からの懇請で、伊吾から高昌に向かい、国王から旅費などの寄進をうけた。
 
* 高昌国王からの懇請で、伊吾から高昌に向かい、国王から旅費などの寄進をうけた。

2004年3月14日 (日) 23:01時点における版

玄奘 (げんじょう、Xuan zang、602年-664年)

「玄弉」の文字を使うのが正しいが、通常コンピュータ上では上記のように表記されている。

 中国、唐代初期の仏教僧。インドへの求法僧で、一般には三蔵法師として知られる。
 俗姓は陳氏。洛陽に近い陳留郡(河南省)誠氏県に生まれた。

  • 13歳のときに出家し、兄の長捷のいた洛陽の浄土寺に住んで経論を学ぶ。
  • 618年 隋・唐王朝交代期に、兄とともに長安に入るが、兵乱のため講義がなかったので、蜀(四川省)の空慧寺に入った。
  • 622年(武徳5年)に具足戒をうけ、成都から草州、相州、趙州をへて長安に戻り、大覚寺に住んで道岳、法常、僧弁といった学僧から倶舎論摂大乗論の教義を受けた。しかし、多くの疑義を解決することができず、本場の学者から瑜伽師地論 を学びたいと、インド留学を決意した。当時、唐の法律では国外への旅行が禁止されていたので、僧数名とともに願書を出したが却下された。
  • 629年(貞観3年)国禁を犯して求法の途についた。
  • 高昌国王からの懇請で、伊吾から高昌に向かい、国王から旅費などの寄進をうけた。
  • クチャから天山山脈を越えて北路に出、西突厥(とつけつ)の統葉護可汗に会う。
  • アフガニスタンから北インドに入り、中インドのマガダ国ナーランダ寺に至った。
  • この寺に5年とどまり、シーラバドラ(戒賢、ziilabhadra)について瑜伽師地論をはじめとする無著世親系の瑜伽唯識の教学をきわめた。
  • その後、インド各地に求法と仏跡巡礼の旅を続け、多数の仏典を収集して帰路につく。
  • 645年 ヒンドゥークシュ山脈とパミール高原を越え、ホータンを通り、17年ぶりの長安に帰った。

 インドから請来したのは、仏舎利150粒、仏像8体、経典520夾、657部で、弘福寺に安置された。皇帝太宗は勅を下してただちに訳経を開始させ、はじめは弘福寺で、のちには大慈恩寺で訳経に専念した。
 20年間に訳出した大乗小乗の経論は、大般若波羅蜜多経 600巻をはじめ、瑜伽師地論 倶舎論など75部、1235巻に達した。その訳は逐語訳を特徴とし、新訳と呼ばれ、クマーラジーバ(鳩摩羅什)らの旧訳と区別される。
 門下の窺基円測、普光らにより法相宗、倶舎宗が興った。
 弟子の弁機に編述させた旅行記大唐西域記 12巻は、彼の伝記である大唐大慈恩寺三蔵法師伝 10巻ともども、正確無比な記述によって、7世紀の西域、インドを知る貴重な文献である。西安南郊の興教寺に墓所がある。

小説西遊記 のテーマとなったことが知られている。