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: あるいは心と名づく。種々の法によって、種子を薫習し、積集する所なるが故に。 〔唯識論3〕 | : あるいは心と名づく。種々の法によって、種子を薫習し、積集する所なるが故に。 〔唯識論3〕 | ||
: 梵で質多という。これ心と名づくなり。即ち積集の義はこれ心の義。集起の義はこれ心の義なり。能集してもって多くの種子生ずる故に。この識を説いてもって心と為す。 〔唯識述記3末〕 | : 梵で質多という。これ心と名づくなり。即ち積集の義はこれ心の義。集起の義はこれ心の義なり。能集してもって多くの種子生ずる故に。この識を説いてもって心と為す。 〔唯識述記3末〕 | ||
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+ | <big>ālaya</big> ''mn,'' an abode, house, dwelling; receptacle; seat or place. 家、場所。 |
2023年12月15日 (金) 15:05時点における最新版
阿頼耶識
ālaya-vijñāna आलयविज्ञान (S)。サンスクリット ālaya आलयの音写と、vijñāna विज्ञानの意訳「識」との合成語。旧訳では「阿梨耶識(ありやしき)」。
唯識法相宗独自の教義。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識の八識のうち第8に数え、人間存在の根本にある識である。aalayaの語義は、住居・場所の意であって、その場に一切諸法を生ずる種子を内蔵しているから蔵識と訳される。この点から一切種子識とも呼ばれる。
はたらき
阿頼耶識は、蔵している種子から対象世界の諸法(現行法)を生じ、その諸法はまた阿頼耶識に印象(熏習)を与えて種子を形成し、刹那に生滅しつつ持続(相続)する。
この識は個人存在の中心として多様な機能を具えているが、その機能に応じて他にもさまざまな名称で呼ばれる。過去の業の果報(異熟)として生じた点からは異熟識と呼ばれ、他の諸識の生ずる基である点から根本識と呼ばれ、身心の機官を維持する点から阿陀那識(ādāna-vijñāna、執持識)と呼ぶ。
法相宗の説
唯識法相宗は、万有は阿頼耶識より縁起したものであるとしている。それは主として迷いの世界についていうが、悟りの諸法も阿頼耶識によって成立すると説くので、後世、阿頼耶識の本質は、清らかな真識であるか、汚れた妄識であるかという論争が生じた。
- 阿頼耶とは、この翻に蔵となす。 〔唯識述記 2末〕
三種の境
阿頼耶識は、常にこの三種を所縁の境とする。
心
心に積集、集起の二つの義があって、阿頼耶識は諸法の種子を集め、諸法を生起するするので、心という。
- あるいは心と名づく。種々の法によって、種子を薫習し、積集する所なるが故に。 〔唯識論3〕
- 梵で質多という。これ心と名づくなり。即ち積集の義はこれ心の義。集起の義はこれ心の義なり。能集してもって多くの種子生ずる故に。この識を説いてもって心と為す。 〔唯識述記3末〕
ālaya
ālaya mn, an abode, house, dwelling; receptacle; seat or place. 家、場所。