「こうみょう」の版間の差分
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世間には四つの光(cattāro pajjota)がある。ここには第五(の光)はない。昼には太陽が輝き(tapati)夜には月が光り輝く(ābhāti)。また火は昼夜にそこここを照らす(pabhāsati)。正覚者は輝けるものの中で最勝者であり、この光は無上である(sambuddho tapataṃ seṭṭho/ esā ābhā anuttarā)。〔''SN''. I, p.15〕 | 世間には四つの光(cattāro pajjota)がある。ここには第五(の光)はない。昼には太陽が輝き(tapati)夜には月が光り輝く(ābhāti)。また火は昼夜にそこここを照らす(pabhāsati)。正覚者は輝けるものの中で最勝者であり、この光は無上である(sambuddho tapataṃ seṭṭho/ esā ābhā anuttarā)。〔''SN''. I, p.15〕 | ||
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その時〔=仏の託胎・降誕・成道・初転法輪の際に、定方〕、天界と魔界と梵天界とを含む世界において、沙門・バラモンと人・天とを含む衆の中において、無量にして広大なる光(appamāṇo uḷāro obhāsa)が、諸天の天の威力を超えて出現する。かの世界の涯の悲惨にして涯底なる、暗冥・黒闇のところ、そこにはこのような大神力やこのような大威力をもつこれらの月や太陽の光さえも及ばないところ、そのところにまでも、無量にして広大なる光が、諸天の天の威力を超えて出現する。〔''AN''. II, pp.130-131〕 | その時〔=仏の託胎・降誕・成道・初転法輪の際に、定方〕、天界と魔界と梵天界とを含む世界において、沙門・バラモンと人・天とを含む衆の中において、無量にして広大なる光(appamāṇo uḷāro obhāsa)が、諸天の天の威力を超えて出現する。かの世界の涯の悲惨にして涯底なる、暗冥・黒闇のところ、そこにはこのような大神力やこのような大威力をもつこれらの月や太陽の光さえも及ばないところ、そのところにまでも、無量にして広大なる光が、諸天の天の威力を超えて出現する。〔''AN''. II, pp.130-131〕 | ||
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+ | アーナンダよ、ここに如来は三千大千世界を光(obhāsa)をもって満たし、かの生ける者たちが、その光(āloka)を認知するならば、その時、如来は音を発し、声を聞かしめるであろう。アーナンダよ、このようにして、如来は音声をもって、三千大千世界、あるいはまた望む限りに知らしめるであろう。〔''AN''. I, pp.227-228〕 |
2025年1月31日 (金) 15:37時点における版
光明
prabhā,āloka (S)
「光明信仰」は
- 古代イランのゾロアスター教における最高の光明神アフラ・マズダー(ahura mazdā)の信仰
- インドのリグ・ヴェーダその他ひろくヴェーダ聖典一般における太陽神 sūrya;āditya
- 暁紅神 uṣas
- 火神 agni
- 雷霆神インドラ(indra)
の光明・光輝(毘盧舎那 vairocana)に対する信仰に広くみることができる。
ウパニシャッドおよびそれを継承したヴェーダーンタ哲学においても、解脱した後に身体を抜け出たアートマン(我)が光の道を歩んで最高者ブラフマン(梵)に到達すると説く。
初期仏教の光明
世間には四つの光(cattāro pajjota)がある。ここには第五(の光)はない。昼には太陽が輝き(tapati)夜には月が光り輝く(ābhāti)。また火は昼夜にそこここを照らす(pabhāsati)。正覚者は輝けるものの中で最勝者であり、この光は無上である(sambuddho tapataṃ seṭṭho/ esā ābhā anuttarā)。〔SN. I, p.15〕
その時〔=仏の託胎・降誕・成道・初転法輪の際に、定方〕、天界と魔界と梵天界とを含む世界において、沙門・バラモンと人・天とを含む衆の中において、無量にして広大なる光(appamāṇo uḷāro obhāsa)が、諸天の天の威力を超えて出現する。かの世界の涯の悲惨にして涯底なる、暗冥・黒闇のところ、そこにはこのような大神力やこのような大威力をもつこれらの月や太陽の光さえも及ばないところ、そのところにまでも、無量にして広大なる光が、諸天の天の威力を超えて出現する。〔AN. II, pp.130-131〕
アーナンダよ、ここに如来は三千大千世界を光(obhāsa)をもって満たし、かの生ける者たちが、その光(āloka)を認知するならば、その時、如来は音を発し、声を聞かしめるであろう。アーナンダよ、このようにして、如来は音声をもって、三千大千世界、あるいはまた望む限りに知らしめるであろう。〔AN. I, pp.227-228〕