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「しょうじょう」の版間の差分

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

 
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清く澄んでいること、顔容の光輝、心の平静などを意味する。澄浄、浄心、信、信心、浄信、深信、喜愛などとも訳す。
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:「'''清浄'''」とは、諸もろの[[ぼんのう|煩悩]]の垢濁を離れるなり。有る人言わく、[[しんげ|信解]]を名づけて清浄と為す、と。有る人言わく、堅固の[[しん|信]]を名づけて清浄と為す、と。是の清浄の心は、仏法僧の(三)宝に於いて、苦集滅道の(四)諦に於いて、[[ろっぱらみつ|六波羅蜜]]に於いて、[[ぼさつ|菩薩]]の[[じゅうじ|十地]]に於いて、空・無相・無作の法に於いて、略して之れを言わば、一切の深経、諸もろの菩薩、及び其の所行の一切の仏法に、悉く皆な心に信清浄なるなり。    〔十住毘婆沙論〕

2009年7月31日 (金) 11:22時点における版

清浄

prasaada (skt.)

清く澄んでいること、顔容の光輝、心の平静などを意味する。澄浄、浄心、信、信心、浄信、深信、喜愛などとも訳す。

清浄」とは、諸もろの煩悩の垢濁を離れるなり。有る人言わく、信解を名づけて清浄と為す、と。有る人言わく、堅固のを名づけて清浄と為す、と。是の清浄の心は、仏法僧の(三)宝に於いて、苦集滅道の(四)諦に於いて、六波羅蜜に於いて、菩薩十地に於いて、空・無相・無作の法に於いて、略して之れを言わば、一切の深経、諸もろの菩薩、及び其の所行の一切の仏法に、悉く皆な心に信清浄なるなり。    〔十住毘婆沙論〕