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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
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2017年5月5日 (金) 06:27時点における版
惑
kleśa (S)
迷妄の心。所対の境に迷って、事理を顛倒することを「惑」と言う。
まどわすもの。迷い、また迷いのもとになるもの。対象に迷い、まどわされ、事理を正しく認識することが出来ない迷妄の心をいい、煩悩と同じ。「惑」によって悪業が生じ、その悪業が因となって苦果を生じる輪廻のあり方を「惑業苦」または「三道」という。
阿毘達磨の教義では、惑は見惑と修惑(思惑ともいう)の二つに大別され、見惑は見道で、修惑は修道で断ぜられるとする。
よく所縁に惑う故に、称して惑となす。 〔大乗義章5本〕