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『起信論』では、不生不滅と生滅とが和合して、しかも両者は一でもなければ異なるものでもないという関係にある心のあり方、現実の心の構造をいう。不生不滅すなわち真と、生滅すなわち妄とが和合していて、それを一としようとすれば義として非一、これを別にしようとすれば体として非異であるが、すでに動揺に向っているから、真妄和合識となすほかない。<br> | 『起信論』では、不生不滅と生滅とが和合して、しかも両者は一でもなければ異なるものでもないという関係にある心のあり方、現実の心の構造をいう。不生不滅すなわち真と、生滅すなわち妄とが和合していて、それを一としようとすれば義として非一、これを別にしようとすれば体として非異であるが、すでに動揺に向っているから、真妄和合識となすほかない。<br> | ||
− | 阿梨耶は、[[ぞう|蔵]]と漢訳され、また通俗語源解釈により、[[ | + | 阿梨耶は、[[ぞう|蔵]]と漢訳され、また通俗語源解釈により、[[むもつしき|無没]]とも漢訳される。〔[[きしんろん|起信論]] T32-576b〕 |
偈中の自界(svadhātu)という語をアーラヤ識であると解釈する。この場合は、[[むみょう|無明]](avidyā)と[[ぼんのう|煩悩]](kleśa)との2種が活動する(vṛtti)根源の意。〔『[[しょうごんきょうろん|荘厳経論]]』述求品〕 | 偈中の自界(svadhātu)という語をアーラヤ識であると解釈する。この場合は、[[むみょう|無明]](avidyā)と[[ぼんのう|煩悩]](kleśa)との2種が活動する(vṛtti)根源の意。〔『[[しょうごんきょうろん|荘厳経論]]』述求品〕 |
2018年1月30日 (火) 06:24時点における最新版
阿梨耶識
阿梨耶は「ālaya-vijñāna」の前半の音写。識は「vijñāna」の漢訳。kun gahi rnam par śes pa (T)
『起信論』では、不生不滅と生滅とが和合して、しかも両者は一でもなければ異なるものでもないという関係にある心のあり方、現実の心の構造をいう。不生不滅すなわち真と、生滅すなわち妄とが和合していて、それを一としようとすれば義として非一、これを別にしようとすれば体として非異であるが、すでに動揺に向っているから、真妄和合識となすほかない。
阿梨耶は、蔵と漢訳され、また通俗語源解釈により、無没とも漢訳される。〔起信論 T32-576b〕
偈中の自界(svadhātu)という語をアーラヤ識であると解釈する。この場合は、無明(avidyā)と煩悩(kleśa)との2種が活動する(vṛtti)根源の意。〔『荘厳経論』述求品〕
阿梨耶識は外的世界、すなわち環境世界(器世間)・5つの対象(五境)、および内的世界、すなわち感覚機官(根)・精神とその活動(心・心所)という2種の根源(種子 bīja)であると認められ、その根源である点をさしていう。〔『荘厳経論』功徳品〕
麁重身(dauṣṭhulya-kāya)をいう。"dauṣṭhulya-kāyasya ālayavijñānasya" 〔『荘厳経論』功徳品〕
精神活動を心(citta)と意(manas)と識(vijñāna)とに分けるうち、心をさしていう。"tatra cittam ālaya-vijñānam"〔『荘厳経論』功徳品〕