い
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
意
manas (S)
説一切有部などでは、心・意・識を同義異名と考えている。そのうち「意」は、思量する働きなど、心の考える方面を表す。
今日の知・情・意の「意」は、思の心所(意志作用)が相当する。
唯識派では、心・意・識はおのおの異なる心に対応していると考える。そこで心は阿頼耶識、意は末那識、識は六識をさす。
末那識はmano-nāma-vijñāna(マナスと名付ける識)といい、阿頼耶識を対象に自我を思量するものである。この末那識には、常に我愛・我見・我慢・我癡(がち)の四つの煩悩が付随している。事物を認識・識別する六識のうちで、意識(第六識)はこの末那識をよりどころ(意根)とし、また眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)の前五識が働くときは必ずこの意識が同時に働いているので、六識は煩悩に汚されてしまうことになる。このように、心の汚れのもととなる末那識は、〈染汚意(ぜんまい)〉(kliṣṭa-manas)とも呼ばれる。
無間滅の意
意根は元来、刹那刹那に識が生滅している場合に、ある刹那に識が滅して、次の刹那に識が生起したとき、前に滅した識のことをいう。これを「無間滅(むけんめつ)の意」といい、後の識に道を開き、導き手・拠り所となることから「開導依(かいどうえ)」ともいう。この意は、識の生起を助けているわけであり、等無間縁という縁として語られるものである。
身口意の意
身口意の三業といわれる場合の「意」とは、心(こころ)の思いとか意志など、一般的な意味での心の働き(意業)をさす。