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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
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# to know in all senses、 感覚器官による知であり、認識知をいう。 | # to know in all senses、 感覚器官による知であり、認識知をいう。 | ||
# to learn、学習によって知ることであり、理解知、経験知をいう。 | # to learn、学習によって知ることであり、理解知、経験知をいう。 | ||
# know the true character of、 最終的には、知ることは自己の所有となる。 | # know the true character of、 最終的には、知ることは自己の所有となる。 | ||
− | + | この語根√jñāは、接頭辞を伴って様々に変化し、インド仏教のいくつかの結論に現れてくる。 | |
===了知=== | ===了知=== | ||
− | + | ā-jñā。 近く知るという意味で、「[[りょうち|了知]]」と言われる。 | |
===対知=== | ===対知=== | ||
− | abhi- | + | abhi-jñā。 ~に対して知る。 |
===[[へんち|遍知]]=== | ===[[へんち|遍知]]=== | ||
− | pari- | + | pari-jñā。 あまねく知る。 |
===識知=== | ===識知=== | ||
− | vi- | + | vi-jñā。 分けて知る、というところから、[[ふんべつち|分別知]]とも言われる。[[ゆいしき|唯識]]学派でしばしば使われる用語である。 |
===想=== | ===想=== | ||
− | + | saṃ-jñā。 総合して知る。 | |
===智慧=== | ===智慧=== | ||
− | pra- | + | pra-jñā。 現前にただちに知る、という意味だが、[[はんにゃ|般若]]とも訳され、仏の[[ちえ|智慧]]をいう。 |
2018年5月31日 (木) 16:05時点における最新版
闍那
jñāna (S)
「√jñā」からの名詞で「知ること」を意味するサンスクリット語である。
インドでは「見ること(dṛś)は、知ること(jñā)であり、真に知ることは、成ることである」という。そこで、「知る」ことは根本課題となっている。
この「jñā」の語義は、かなり広く、アプテ(V.S.Apte)によると、
- to know in all senses、 感覚器官による知であり、認識知をいう。
- to learn、学習によって知ることであり、理解知、経験知をいう。
- know the true character of、 最終的には、知ることは自己の所有となる。
この語根√jñāは、接頭辞を伴って様々に変化し、インド仏教のいくつかの結論に現れてくる。
了知
ā-jñā。 近く知るという意味で、「了知」と言われる。
対知
abhi-jñā。 ~に対して知る。
遍知
pari-jñā。 あまねく知る。
識知
vi-jñā。 分けて知る、というところから、分別知とも言われる。唯識学派でしばしば使われる用語である。
想
saṃ-jñā。 総合して知る。