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(伽藍・寺宝)
 
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 奈良市西ノ京町にある寺院で、[[ほっそうしゅう|法相宗]]の大本山。[[なんとしちだいじ|南都七大寺]]の一つ。
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 奈良市西ノ京町にある寺院で、[[ほっそうしゅう|法相宗]]の大本山。[[なんとしちだいじ|南都七大寺]]の一つ。[http://maps.google.co.jp/maps?f=q&hl=ja&geocode=&q=%E5%A5%88%E8%89%AF%E5%B8%82%E3%80%80%E8%96%AC%E5%B8%AB%E5%AF%BA&sll=34.687772,135.840679&sspn=0.006908,0.009527&ie=UTF8&ll=34.668635,135.784342&spn=0.003353,0.004764&t=k&z=18 地図]
  
 
* 680年(天武9)に皇后…のちの持統天皇…の病気平癒を祈って天武天皇(?-686)が建立を発願。天皇の死後は持統天皇(645-702)が造営事業を継続し
 
* 680年(天武9)に皇后…のちの持統天皇…の病気平癒を祈って天武天皇(?-686)が建立を発願。天皇の死後は持統天皇(645-702)が造営事業を継続し
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* 830年(天長7)に始められた[[さいしょうえ|最勝会]]は[[さんね|三会]]の一つとして重要視された。
 
* 830年(天長7)に始められた[[さいしょうえ|最勝会]]は[[さんね|三会]]の一つとして重要視された。
  
[[がらん|伽藍]]配置は、[[こんどう|金堂]]の前面に東西両[[とう|塔]]が建ついわゆる薬師寺式である。[[画像:Yakushiji haichi.gif|right|薬師寺伽藍配置図]]
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[[がらん|伽藍]]配置は、[[こんどう|金堂]]の前面に東西両[[とう|塔]]が建ついわゆる薬師寺式である。[http://hiroppe-frappe.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2007/08/07/dscf0955.jpg 金堂画像]
 
* 973年(天延1)に金堂と両塔を残して焼失、
 
* 973年(天延1)に金堂と両塔を残して焼失、
 
* 1528年(享禄1)には金堂や西塔などを焼失するなど数次の被災により、創建時の建物は東塔のみであるが、貴重な文化財を伝えている。
 
* 1528年(享禄1)には金堂や西塔などを焼失するなど数次の被災により、創建時の建物は東塔のみであるが、貴重な文化財を伝えている。
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===伽藍・寺宝===
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 東塔は各重に[[もこし|裳階]]を付けた三重塔で、本(もと)薬師寺(橿原(かしはら)市木殿)から移したか、新造したかについては議論が分れる。<br>
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 [[そうりん|相輪]]上部の[[すいえん|水煙]]は雲の中に12人の[[ひてん|飛天]]を配した透かし彫りで、他に例のない卓抜な意匠である。[[こんどう|金堂]]に安置された[[ほんぞん|本尊]]の[[やくしさんぞんぞう|薬師三尊像]]は、中国盛唐の様式を取り入れた銅造鍍金の像で、豊かな体躯と整ったプロポーションをもつ日本古代彫刻史上の名作である。<br>
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 東院堂の[[しょうかんのんぞう|聖観音像]]は[[はくほう|白鳳]]期の要素と新しい中国的な要素とをもち、薬師三尊像よりも制作時期が古いとも考えられる優れた像である。<br>
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 また[[きちじょうてん|吉祥天]]画像は麻布に斜め向きに描かれた天女像で、正装した唐代の女性の姿で表現されている。吉祥[[けか|悔過]]の本尊とみられ、奈良時代末期の作である。<br>
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 [[ぶっそくせき|仏足石]]は石の上面に仏足跡を線刻したもので、753年(天平勝宝5)に制作された。仏足跡歌碑は石に21首の歌を刻んだもので、天平時代の[[きんせきもん|金石文]]として、また仏教文学として貴重である。
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 なお近年、金堂・西塔・中門を復興するなど、寺観の整備が進められている。

2019年8月1日 (木) 17:06時点における最新版

薬師寺

 奈良市西ノ京町にある寺院で、法相宗の大本山。南都七大寺の一つ。地図

  • 680年(天武9)に皇后…のちの持統天皇…の病気平癒を祈って天武天皇(?-686)が建立を発願。天皇の死後は持統天皇(645-702)が造営事業を継続し
  • 698年(文武2)に至り完成した。平城京への遷都(710)とともに718年(養老2)に藤原京から移建されたと伝えられ、
  • 730年(天平2)には東塔が建てられた。
  • 749年(天平勝宝1)には墾田・稲・絁(あしぎぬ)などが施入されたのをはじめ、官寺として国家の庇護を受け
  • 830年(天長7)に始められた最勝会三会の一つとして重要視された。

伽藍配置は、金堂の前面に東西両が建ついわゆる薬師寺式である。金堂画像

  • 973年(天延1)に金堂と両塔を残して焼失、
  • 1528年(享禄1)には金堂や西塔などを焼失するなど数次の被災により、創建時の建物は東塔のみであるが、貴重な文化財を伝えている。

伽藍・寺宝

 東塔は各重に裳階を付けた三重塔で、本(もと)薬師寺(橿原(かしはら)市木殿)から移したか、新造したかについては議論が分れる。
 相輪上部の水煙は雲の中に12人の飛天を配した透かし彫りで、他に例のない卓抜な意匠である。金堂に安置された本尊薬師三尊像は、中国盛唐の様式を取り入れた銅造鍍金の像で、豊かな体躯と整ったプロポーションをもつ日本古代彫刻史上の名作である。
 東院堂の聖観音像白鳳期の要素と新しい中国的な要素とをもち、薬師三尊像よりも制作時期が古いとも考えられる優れた像である。
 また吉祥天画像は麻布に斜め向きに描かれた天女像で、正装した唐代の女性の姿で表現されている。吉祥悔過の本尊とみられ、奈良時代末期の作である。
 仏足石は石の上面に仏足跡を線刻したもので、753年(天平勝宝5)に制作された。仏足跡歌碑は石に21首の歌を刻んだもので、天平時代の金石文として、また仏教文学として貴重である。

 なお近年、金堂・西塔・中門を復興するなど、寺観の整備が進められている。