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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

(正定聚)
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<big>niyata-samyaktva</big>、[[ひつじょうじゅ|必定聚]]とも言う。
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<big>niyata-samyaktva</big>、[[ひつじょうじゅ|必定聚]]とも、[[しょうしょうじょうじゅ|正性定聚]]とも言う。<br>
 
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 衆生を3種類に分けたうちの一つ。必ず仏となるべく決定されている聖者をいう。倶舎の教学によると、苦法智忍を得た位をいう。〔倶舎論〕
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: niyata-rāṣi 決定された群れ、決定的な人々、ニルヴァーナにおいて正しく定まっている人々、という意味。
 
 「正性決定(しょうじょうけつじょう)」ともいい、まさしく悟りが決定している人またはその位を意味する。
 
 「正性決定(しょうじょうけつじょう)」ともいい、まさしく悟りが決定している人またはその位を意味する。
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 さとりまで退転なく進んでやまぬ菩薩に仲間入りすること。仏道不退の菩薩の仲間。〔十住毘婆沙論〕〔往生論註〕
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 浄土真宗で、阿弥陀仏に救われて、正しく仏になると定まった人びとをいう。すなわち第十八願に誓われ、他力念仏を信ずる人。〔正像末和讃〕〔浄土和讃〕
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 往定人と定めたを正定聚と云ふ。〔円乗〕
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 選択本願を信ずる人。〔〃〕
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 一、学無学の人(小乗)円覚経大疏。二、菩薩種性の人(法相宗)。三、如来蔵の教の信成就して発心する人、十信円満して初住の位の人(法性宗)。〔〃〕
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 必ず大涅槃に至るべき身と定む。〔〃〕
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 正は正性なり。聚は衆と同じもろもろと云ふ事。無上涅槃に定まれる人なり。〔円乗〕
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 正しく定まるともがら。〔〕
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:; かならず仏となるべき身となれるなり。〔一念多念証文〕
  
 
 浄土教では、必ず往生することに定まっている人びとのことをいう。[[しんらん|親鸞]]は、
 
 浄土教では、必ず往生することに定まっている人びとのことをいう。[[しんらん|親鸞]]は、
信心定まるとき往生また定まるなり     〔[[まっとうしょう|末灯鈔]]
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:; 真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。来迎の儀則をまたず。     〔[[まっとうしょう|末灯鈔]] p.735〕
 
といい、[[むりょうじゅきょう|無量寿経]]に
 
といい、[[むりょうじゅきょう|無量寿経]]に
(すなわ)ち往生を得、不退転に住す
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:; 即(すなわ)ち往生を得、不退転に住す
とある[[そくとくおうじょう|即得往生]]とはこの世(現生)において正定聚に住することである、と[[げんしょうしょうじょうじゅ|現生正定聚]]ということを強調する。
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とある[[そくとくおうじょう|即得往生]]とはこの世(現生)において'''正定聚'''に住することである、と[[げんしょうしょうじょうじゅ|現生正定聚]]ということを強調する。
  信心の定まらぬ人は、正定聚に住したまはずして、うかれたまひたる人なり     〔末灯鈔〕
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: 信心の定まらぬ人は'''正定聚'''に住したまはずして、うかれたまひたる人なり。     〔末灯鈔 p.772〕
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===初期仏教===
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 初期仏教において、凡夫位から聖者位に入る[[よるこう|預流向]](見道)は、初級のさとりを得た人を指し、[[あくしゅ|悪趣]]に堕ちないから不堕法(avinipātadhamma)といい、また聖者位から退転せず、阿羅漢のさとりにいたることが決定しているから、[[しょうしょうけつじょう|正性決定]](sammattaniyata)といい、かかる初級のさとりの人びとを、'''正定聚'''(sammattaniyatarāsi)という。<br>
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 このさとりを得る方法に2種があり、一つには[[しんじん|信心]]によるもの(随信行)で、仏法僧の三宝と聖戒の4つに対して金剛不壊の浄信を確立するという。四不壊浄の教えである。二つには理論的把握によるもの(随法行)で、四諦現観などによって法眼を得る場合である。預流向から阿羅漢果までの[[しそうはっぱい|四双八輩]]の聖者のなかには、初級のさとりを深めていく修行方法として、前記の信心と理論のほかに[[ぜんじょう|禅定]]を加えた三つが採られていた。そして、釈尊も阿羅漢果をさとった一人であったから、初期仏教から部派仏教にかけて、最高のさとりは'''阿羅漢果'''であった。<br><br>
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 これからも、浄土教において、[[しんらん|親鸞]]が彼土における正定聚を信心を獲たときの'''現生の[[やく|益]]'''として此土にもってきて、次生に仏となる身と決定した位としたことは卓見であると言える。
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===梵本『無量寿経』===
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<big>niyatāḥ…samyaktva</big> (S)、「正しく目ざめるに決っている状態にいないようであったら」
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 「正しく目ざめるに決っている状態」の原文が上のようになっている。
  
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 漢訳に「[[じょうじゅ|定聚]]」「'''正定聚'''」と訳される。仏典において定型化した形ではsamyaktva-niyata-rāśi(正性定聚)・nithyātva-niyata-rāśi(邪性定聚)・aniyata-rāśi(不定聚)という3つのグループの一つとして出る。『無量寿経』では他の2つは現われないし、形も少し違っていて、定型化する以前の古い形のものである。多少の迷いはあるにしても、根本的にはもはや幸あるところという世界に生まれるに決定しているような精神状態を指している。<br>
 初期仏教において、凡夫位から聖者位に入る[[よるこう|預流向]](見道)は、初級のさとりを得た人を指し、[[あくしゅ|悪趣]]に堕ちないから[[ふだほう|不堕法]](avinipātadhamma)といい、また聖者位から退転せず、阿羅漢のさとりにいたることが決定しているから、正性決定(sammattaniyata)といい、かかる初級のさとりの人びとを、[[しょうじょうじゅ|正定聚]](sammattaniyatarāsi)という。<br>
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 この文から見ると、極楽に生れることは、ニルヴァーナに達する以前の前段階なのである。[[おうじょうそくねはん|往生即涅槃]]と解する浄土真宗の教義は、日本で成立した独自のものなのである。
 このさとりを得る方法に2種があり、一つには[[しんじん|信心]]によるもの(随信行)で、仏法僧の三宝と聖戒の4つに対して金剛不壊の浄信を確立するという。四不壊浄の教えである。二つには理論的把握によるもの(随法行)で、四諦現観などによって法眼を得る場合である。預流向から阿羅漢果までの[[しそうはちはい|四双八輩]]の聖者のなかには、初級のさとりを深めていく修行方法として、前記の信心と理論のほかに[[ぜんじょう|禅定]]を加えた三つが採られていた。そして、釈尊も阿羅漢果をさとった一人であったから、初期仏教から部派仏教にかけて、最高のさとりは'''阿羅漢果'''であった。<br><br>
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 なお、浄土教において、[[しんらん|親鸞]]が彼土における正定聚を信心を獲たときの[[げんしょう|現生]]の益として此土にもってきて、次生に仏となる身と決定した位としたことは卓見である。
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2025年5月2日 (金) 11:07時点における最新版

正定聚

niyata-samyaktva必定聚とも、正性定聚とも言う。
 衆生を3種類に分けたうちの一つ。必ず仏となるべく決定されている聖者をいう。倶舎の教学によると、苦法智忍を得た位をいう。〔倶舎論〕

 niyata-rāṣi 決定された群れ、決定的な人々、ニルヴァーナにおいて正しく定まっている人々、という意味。

 「正性決定(しょうじょうけつじょう)」ともいい、まさしく悟りが決定している人またはその位を意味する。

 さとりまで退転なく進んでやまぬ菩薩に仲間入りすること。仏道不退の菩薩の仲間。〔十住毘婆沙論〕〔往生論註〕

 浄土真宗で、阿弥陀仏に救われて、正しく仏になると定まった人びとをいう。すなわち第十八願に誓われ、他力念仏を信ずる人。〔正像末和讃〕〔浄土和讃〕

 往定人と定めたを正定聚と云ふ。〔円乗〕
 選択本願を信ずる人。〔〃〕
 一、学無学の人(小乗)円覚経大疏。二、菩薩種性の人(法相宗)。三、如来蔵の教の信成就して発心する人、十信円満して初住の位の人(法性宗)。〔〃〕
 必ず大涅槃に至るべき身と定む。〔〃〕
 正は正性なり。聚は衆と同じもろもろと云ふ事。無上涅槃に定まれる人なり。〔円乗〕
 正しく定まるともがら。〔〕
 かならず仏となるべき身となれるなり。〔一念多念証文〕

 浄土教では、必ず往生することに定まっている人びとのことをいう。親鸞は、

 真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。来迎の儀則をまたず。     〔末灯鈔 p.735〕

といい、無量寿経

 即(すなわ)ち往生を得、不退転に住す

とある即得往生とはこの世(現生)において正定聚に住することである、と現生正定聚ということを強調する。

信心の定まらぬ人は正定聚に住したまはずして、うかれたまひたる人なり。     〔末灯鈔 p.772〕

初期仏教

 初期仏教において、凡夫位から聖者位に入る預流向(見道)は、初級のさとりを得た人を指し、悪趣に堕ちないから不堕法(avinipātadhamma)といい、また聖者位から退転せず、阿羅漢のさとりにいたることが決定しているから、正性決定(sammattaniyata)といい、かかる初級のさとりの人びとを、正定聚(sammattaniyatarāsi)という。
 このさとりを得る方法に2種があり、一つには信心によるもの(随信行)で、仏法僧の三宝と聖戒の4つに対して金剛不壊の浄信を確立するという。四不壊浄の教えである。二つには理論的把握によるもの(随法行)で、四諦現観などによって法眼を得る場合である。預流向から阿羅漢果までの四双八輩の聖者のなかには、初級のさとりを深めていく修行方法として、前記の信心と理論のほかに禅定を加えた三つが採られていた。そして、釈尊も阿羅漢果をさとった一人であったから、初期仏教から部派仏教にかけて、最高のさとりは阿羅漢果であった。

 これからも、浄土教において、親鸞が彼土における正定聚を信心を獲たときの現生のとして此土にもってきて、次生に仏となる身と決定した位としたことは卓見であると言える。

梵本『無量寿経』

niyatāḥ…samyaktva (S)、「正しく目ざめるに決っている状態にいないようであったら」

 「正しく目ざめるに決っている状態」の原文が上のようになっている。

 漢訳に「定聚」「正定聚」と訳される。仏典において定型化した形ではsamyaktva-niyata-rāśi(正性定聚)・nithyātva-niyata-rāśi(邪性定聚)・aniyata-rāśi(不定聚)という3つのグループの一つとして出る。『無量寿経』では他の2つは現われないし、形も少し違っていて、定型化する以前の古い形のものである。多少の迷いはあるにしても、根本的にはもはや幸あるところという世界に生まれるに決定しているような精神状態を指している。
 この文から見ると、極楽に生れることは、ニルヴァーナに達する以前の前段階なのである。往生即涅槃と解する浄土真宗の教義は、日本で成立した独自のものなのである。