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三界の心心所は、虚妄の分別をもって自性とする。すなわち、無我無法の上に妄りに我法を分別するのである。これによって、これを分別の惑と称し、この分別の惑を断じるのを無分別慧と称する。 | 三界の心心所は、虚妄の分別をもって自性とする。すなわち、無我無法の上に妄りに我法を分別するのである。これによって、これを分別の惑と称し、この分別の惑を断じるのを無分別慧と称する。 |
2025年2月15日 (土) 15:42時点における最新版
分別
vikalpa विक्प (S)
諸々の事理を思量して識別することを分別という。これは、心心所の自性作用であるから、これによって心心所の異名として呼ばれることもある。
これは決して「良い意味」で使われる言葉ではない。仏は無分別智を得たのであるから、仏教の目標は無分別にある。世間の考え方とは逆であることに、十分な注意が必要である。
- 業と煩悩の滅によって、解脱がある。(a)
- 業と煩悩は、概念作用(分別 vikalpa)から生ずる。(b)
- 概念作用は、言語的展開(戯論 prapañca)から生ずる。(C)
- しかし、言語的展開は、空性において止滅する。(d)〔中論 18- 5〕
三界の心心所は、虚妄の分別をもって自性とする。すなわち、無我無法の上に妄りに我法を分別するのである。これによって、これを分別の惑と称し、この分別の惑を断じるのを無分別慧と称する。
三分別
後の2つは、意識に限られてあるので、比量・非量である。
概念的思考
kalpa: nirdharita: parikalpita: pari-kḷp: vikalpa: vikalpaka: vi-kḷp: saṃkalpa
言葉によって考えること。分別と訳される代表的な原語 vikalpa は「二つにわけて」、あるいは「二つにわかれて」考えるという意味である。すなわち主観と客観とにわかれて両者の二元的対立の上に主観が客観をあれこれと考える作用を分別という。特に〈唯識〉は識一元論の立場より、さまざまな認識対象は、ただ心のなかの表象にすぎないのに、それらは心を離れて外界に実在するとまちがって考える思考のありようを否定して、分別を妄分別、あるいは虚妄分別とも呼ぶ。
種類としては、自性分別・計度分別・随念分別の三種〔『倶舎』2、T29-8b〕、境界分別・領納分別・仮説分別・虚妄分別・実義分別の五種〔『瑜伽』53、T30-594c〕、有相分別・無相分別・任運分別・尋求分別・伺察分別・染汚分別・不染汚分別の七種〔『瑜伽』1、T30-280c〕が説かれる。
「此の尋求と決定との二つの意識に由るが故に境界を分別す」
「諸の尋伺は必ず是れ分別なり」
「真諦に於て覚寤した已後のあらゆる妙慧は分別あることなく諸の戯論を離る」
「眼識の無間に分別の意識が生じ、此の分別の意識に由って可愛なる色に於て将に染著を生ぜんとす」
解明
nirdeśa: prakaraṇa: prajñā: vi-bhaj: vivṛta
説き明かすこと。さらに詳しく解釈すること。
「此の中の所説の教授・教誡は前の力種性品に已に広く分別せしが如く当に知るべし」
分別者、謂、略説巳、分別開示解其義趣。〔『瑜伽師地論』83、T30-763b〕
分類
pari-chid: pra-bhid: prabheda: pravibhāga: bheda: vyava-sā
分類。区分すること。
「煩悩の分別とは、或いは一種を立てる、或いは二種に分かつ」
「是の如く福智は略して六種あれども、一一分別すれば応に無量なりと知るべし」
「若しくは内、若しくは外の六処所摂の法を差別し分別すれば六百六十あり」
五事の一つ
五事(相・名・分別・真如・正智)の一つ。言葉によって考えること。広くは、三界のなかのすべてのこころ(心心所)をいう。
云何五事。一相、二名、三分別、四真如、五正智。(中略)何等為分別。謂、三界行中所有心心所。〔『瑜伽師地論』72、T30-696a〕
分別起・分別生
vikalpita
生まれてから後天的に身についたもの。たとえば、よこしまな教えやよこしまな思考によって身についたものをいう。分別起・分別生とおなじ。倶生(先天的なもの)の反対語。
「分別の我見」
「分別の我執」
「倶生の身見は是れ無記性にして、分別生は是れ不善性なり」
分別法執、亦由現在外縁力故、非与身倶。要待邪教及邪分別、然後方起、故名分別。〔『成論』2、T31-7a〕
相似
触の定義のなかにみられる「変異を分別する」の分別。この場合の分別は相似と言い換えられ、触が、それを生じた根・境・識の三つの変化に似て、あらゆる心所を生じる力をもつに至ることをいう。
「触とは謂く、三和して変異を分別して心心所をして境に触れしむるをもって性と為す」
〔『成論」3,T31-11b~c〕〔『述記』3末、T43-328c〕
所分別の反対
所分別に対する分別。認識するもの。主観。〈唯識〉は、識が転変して分別(分別するもの。認識するもの)と所分別(分別されるもの。認識されるもの)とにわかれ、その両者の関係の上に分別されたものは非存在であり、一切はただ識のみが存在するにすぎないと主張する。識を四つの部分に分ける四分説でいえば、見分が分別であり、相分が所分別である。
〔『成論』7,T31-38c〕