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− | * 古代イランの[[ゾロアスター]]教における最高の光明神[[アフラ・マズダー]](ahura | + | * 古代イランの[[ゾロアスター]]教における最高の光明神[[アフラ・マズダー]](<big>ahura mazdā</big>)の信仰 |
− | * インドの[[リグ・ヴェーダ]]その他ひろく[[ヴェーダ]]聖典一般における太陽神 | + | * インドの[[リグ・ヴェーダ]]その他ひろく[[ヴェーダ]]聖典一般における太陽神 <big>sūrya;āditya</big> |
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− | * 火神 agni | + | * 火神 <big>agni</big> |
− | * 雷霆神インドラ(indra) | + | * 雷霆神インドラ(<big>indra</big>) |
− | の光明・光輝([[びるしゃな|毘盧舎那]] vairocana)に対する信仰に広くみることができる。<br> | + | の光明・光輝([[びるしゃな|毘盧舎那]] <big>vairocana</big>)に対する信仰に広くみることができる。<br> |
[[ウパニシャッド]]およびそれを継承した[[ヴェーダーンタ]]哲学においても、[[げだつ|解脱]]した後に身体を抜け出たアートマン([[が|我]])が光の道を歩んで最高者ブラフマン([[ぼん|梵]])に到達すると説く。 | [[ウパニシャッド]]およびそれを継承した[[ヴェーダーンタ]]哲学においても、[[げだつ|解脱]]した後に身体を抜け出たアートマン([[が|我]])が光の道を歩んで最高者ブラフマン([[ぼん|梵]])に到達すると説く。 | ||
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+ | : 世間には四つの光(cattāro pajjota)がある。ここには第五(の光)はない。昼には太陽が輝き(tapati)夜には月が光り輝く(ābhāti)。また火は昼夜にそこここを照らす(pabhāsati)。正覚者は輝けるものの中で最勝者であり、この光は無上である(sambuddho tapataṃ seṭṭho/ esā ābhā anuttarā)。〔''SN''. I, p.15〕 | ||
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+ | : その時〔=仏の託胎・降誕・成道・初転法輪の際に〕、天界と魔界と梵天界とを含む世界において、沙門・バラモンと人・天とを含む衆の中において、無量にして広大なる光(appamāṇo uḷāro obhāsa)が、諸天の天の威力を超えて出現する。かの世界の涯の悲惨にして涯底なる、暗冥・黒闇のところ、そこにはこのような大神力やこのような大威力をもつこれらの月や太陽の光さえも及ばないところ、そのところにまでも、無量にして広大なる光が、諸天の天の威力を超えて出現する。〔''AN''. II, pp.130-131〕 | ||
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+ | : アーナンダよ、ここに如来は三千大千世界を光(obhāsa)をもって満たし、かの生ける者たちが、その光(āloka)を認知するならば、その時、如来は音を発し、声を聞かしめるであろう。アーナンダよ、このようにして、如来は音声をもって、三千大千世界、あるいはまた望む限りに知らしめるであろう。〔''AN''. I, pp.227-228〕 | ||
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+ | 最後の文の「あるいはまた望む限りに」(yāvatā pana ākańkheyya)はプッダゴーサによって「無辺無量なる対象国土」(visayakkhettaṃ anantam aparimāṇaṃ)を指すものと解されており、これはちょうど『阿弥陀経』において、仏が Amitābha と名づけられる理由として、「如来の光がすべての仏国土において無礙である」(tathāgatasyābhāpratihatā sarvabuddhakṣetreṣu)といわれていることに対応する。したがって、アミターバの観念は原始仏教の仏陀観のなかにすでに胚胎しているのである、と藤田宏達博士は『原始浄土思想の研究』pp.330-331で述べている。 |
2025年1月31日 (金) 16:11時点における最新版
光明
prabhā,āloka (S)
「光明信仰」は
- 古代イランのゾロアスター教における最高の光明神アフラ・マズダー(ahura mazdā)の信仰
- インドのリグ・ヴェーダその他ひろくヴェーダ聖典一般における太陽神 sūrya;āditya
- 暁紅神 uṣas
- 火神 agni
- 雷霆神インドラ(indra)
の光明・光輝(毘盧舎那 vairocana)に対する信仰に広くみることができる。
ウパニシャッドおよびそれを継承したヴェーダーンタ哲学においても、解脱した後に身体を抜け出たアートマン(我)が光の道を歩んで最高者ブラフマン(梵)に到達すると説く。
初期仏教の光明
- 世間には四つの光(cattāro pajjota)がある。ここには第五(の光)はない。昼には太陽が輝き(tapati)夜には月が光り輝く(ābhāti)。また火は昼夜にそこここを照らす(pabhāsati)。正覚者は輝けるものの中で最勝者であり、この光は無上である(sambuddho tapataṃ seṭṭho/ esā ābhā anuttarā)。〔SN. I, p.15〕
- その時〔=仏の託胎・降誕・成道・初転法輪の際に〕、天界と魔界と梵天界とを含む世界において、沙門・バラモンと人・天とを含む衆の中において、無量にして広大なる光(appamāṇo uḷāro obhāsa)が、諸天の天の威力を超えて出現する。かの世界の涯の悲惨にして涯底なる、暗冥・黒闇のところ、そこにはこのような大神力やこのような大威力をもつこれらの月や太陽の光さえも及ばないところ、そのところにまでも、無量にして広大なる光が、諸天の天の威力を超えて出現する。〔AN. II, pp.130-131〕
- アーナンダよ、ここに如来は三千大千世界を光(obhāsa)をもって満たし、かの生ける者たちが、その光(āloka)を認知するならば、その時、如来は音を発し、声を聞かしめるであろう。アーナンダよ、このようにして、如来は音声をもって、三千大千世界、あるいはまた望む限りに知らしめるであろう。〔AN. I, pp.227-228〕
最後の文の「あるいはまた望む限りに」(yāvatā pana ākańkheyya)はプッダゴーサによって「無辺無量なる対象国土」(visayakkhettaṃ anantam aparimāṇaṃ)を指すものと解されており、これはちょうど『阿弥陀経』において、仏が Amitābha と名づけられる理由として、「如来の光がすべての仏国土において無礙である」(tathāgatasyābhāpratihatā sarvabuddhakṣetreṣu)といわれていることに対応する。したがって、アミターバの観念は原始仏教の仏陀観のなかにすでに胚胎しているのである、と藤田宏達博士は『原始浄土思想の研究』pp.330-331で述べている。