「しょぎょうむじょう」の版間の差分
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− | + | 現実存在はすべて、すがたも本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができないことをいう。この場合、諸行とは一切のつくられたもの、もしくはできあがったもの、[[ういほう|有為法]]をいう。[[さんぼういん|三法印]]、[[しほういん|四法印]]のひとつ。 | |
− | + | 諸行の「行」については、[[ぎょう|行]]のsaṇkhāraの項に詳しい。 | |
− | + | 初期の経典に「無常」(anicca)という語は、ほとんど出てこない。ただ、『ダンマパダ』に‥‥ | |
+ | :277「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。 | ||
+ | :278 「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。 | ||
+ | :279「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。 | ||
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+ | ''[[ねはんぎょう|涅槃経]]'' に「諸行[[むじょう|無常]]。是生滅法。生滅滅已。寂滅為楽」とあり、これを諸行無常偈と呼ぶ。[[せっさんどうじ|雪山童子]]はこの中の後半偈を聞く為に身を[[らせつ|羅刹]]に捨てしなり。これより雪山偈とも言われる。 | ||
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+ | 「諸行は無常であってこれは生滅の法であり、生滅の法は[[く|苦]]である。」この半偈は流転門。 | ||
「この生と滅とを滅しおわって、生なく滅なきを寂滅とす。寂滅は即ち[[ねはん|涅槃]]、是れ楽なり。」「為楽」というのは、涅槃楽を受けるというのではない。有為の苦に対して寂滅を楽といっているだけである。後半偈は還滅門。 | 「この生と滅とを滅しおわって、生なく滅なきを寂滅とす。寂滅は即ち[[ねはん|涅槃]]、是れ楽なり。」「為楽」というのは、涅槃楽を受けるというのではない。有為の苦に対して寂滅を楽といっているだけである。後半偈は還滅門。 | ||
− | [[こうぼうだいし|弘法大師]][[くうかい|空海]]が作ったとされる「いろは歌」はこの偈を詠んだものであると言われている。 | + | [[こうぼうだいし|弘法大師]][[くうかい|空海]]が作ったとされる「いろは歌」はこの偈を詠んだものであると言われている。 |
− | + | :いろはにほへどちりぬるを 諸行無常 | |
− | + | :わがよたれぞつねならむ 是生滅法 | |
− | + | :うゐのおくやまけふこえて 生滅滅己 | |
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− | [[パーリ]]語ではこの偈は次のようである。 | + | [[パーリ]]語ではこの偈は次のようである。 |
− | + | :諸行無常 aniccā vata sańkhāra | |
− | + | :是性滅法 uppādavayadhammo | |
− | + | :生滅滅已 uppajjitvā nirujjhanti | |
− | + | :寂滅為楽 tesaṃ rūpasamo sukho | |
− | + | 三法印・四法印は[[しゃか|釈迦]]のさとりの内容であるとされているが、釈迦が「諸行無常」を感じて出家したという記述が、初期の『''[[あごんきょう|阿含経]]'' 』に多く残されている。 |
2020年8月20日 (木) 15:47時点における最新版
諸行無常
sabbe-saṃkhārā-aniccā (S)
現実存在はすべて、すがたも本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができないことをいう。この場合、諸行とは一切のつくられたもの、もしくはできあがったもの、有為法をいう。三法印、四法印のひとつ。
諸行の「行」については、行のsaṇkhāraの項に詳しい。
初期の経典に「無常」(anicca)という語は、ほとんど出てこない。ただ、『ダンマパダ』に‥‥
- 277「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
- 278 「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
- 279「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
ここに一度だけaniccaが“sabbe sańkhārā aniccā”として出てくる。
諸行無常偈
涅槃経 に「諸行無常。是生滅法。生滅滅已。寂滅為楽」とあり、これを諸行無常偈と呼ぶ。雪山童子はこの中の後半偈を聞く為に身を羅刹に捨てしなり。これより雪山偈とも言われる。
「諸行は無常であってこれは生滅の法であり、生滅の法は苦である。」この半偈は流転門。 「この生と滅とを滅しおわって、生なく滅なきを寂滅とす。寂滅は即ち涅槃、是れ楽なり。」「為楽」というのは、涅槃楽を受けるというのではない。有為の苦に対して寂滅を楽といっているだけである。後半偈は還滅門。
弘法大師空海が作ったとされる「いろは歌」はこの偈を詠んだものであると言われている。
- いろはにほへどちりぬるを 諸行無常
- わがよたれぞつねならむ 是生滅法
- うゐのおくやまけふこえて 生滅滅己
- あさきゆめみじゑひもせず 寂滅為楽
パーリ語ではこの偈は次のようである。
- 諸行無常 aniccā vata sańkhāra
- 是性滅法 uppādavayadhammo
- 生滅滅已 uppajjitvā nirujjhanti
- 寂滅為楽 tesaṃ rūpasamo sukho
三法印・四法印は釈迦のさとりの内容であるとされているが、釈迦が「諸行無常」を感じて出家したという記述が、初期の『阿含経 』に多く残されている。