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もともとは、良家の男子、女子の意味であり、[[きょうてん|経典]]の中でその経典の説法を聞く相手([[たいごうしゅう|対告衆]])に仏が呼びかけられる時に用いられる。その点で、善男子、善女人とは、一般に信者の通称といってもよいであろう。しかし、この呼びかけかたから、いろいろの経典のすがたを考えることがある。<br> | もともとは、良家の男子、女子の意味であり、[[きょうてん|経典]]の中でその経典の説法を聞く相手([[たいごうしゅう|対告衆]])に仏が呼びかけられる時に用いられる。その点で、善男子、善女人とは、一般に信者の通称といってもよいであろう。しかし、この呼びかけかたから、いろいろの経典のすがたを考えることがある。<br> | ||
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+ | *[[うばそく|優婆塞]]〈upāsaka〉 | ||
+ | *[[うばい|優婆夷]]〈upāsikā〉 | ||
+ | *[[しきしゃまな|式叉摩那]]〈śikṣamāna, sikkhamānā〉 | ||
+ | *[[しゃみ|沙弥]]〈śrāmaṇera, sāmaṇera〉 | ||
+ | *[[しゃみに|沙弥尼]]〈śrāmaṇerikā, sāmaṇerī〉 | ||
+ | などの'''七衆'''の中の優婆塞、優婆夷をいうとして、五戒(不殺生、不偸盗、不邪婬、不妄語、不飲酒)をたもてる在家の人をいうとするばあいのごときである。 | ||
===浄土真宗の場合=== | ===浄土真宗の場合=== | ||
[[じょうどしんしゅう|浄土真宗]]では'''善男子善女人'''の「善」を宿世の善因と解して、宿世の善因をもって生まれた男子女子とみたり、また現世の善を修する男子女子とみたり、さらに一般的には念仏する男女のことをいうと解釈したりする。<br> | [[じょうどしんしゅう|浄土真宗]]では'''善男子善女人'''の「善」を宿世の善因と解して、宿世の善因をもって生まれた男子女子とみたり、また現世の善を修する男子女子とみたり、さらに一般的には念仏する男女のことをいうと解釈したりする。<br> | ||
また『[[あみだきょう|阿弥陀経]]』にでる善男子善女人のことばをみて、この経が単なる[[ぼんぶ|凡夫]]を相手にしたものでないとするごときである。このような特別の理解は別にして、一般的には在家の男女の信者をいうとみるべきである。 | また『[[あみだきょう|阿弥陀経]]』にでる善男子善女人のことばをみて、この経が単なる[[ぼんぶ|凡夫]]を相手にしたものでないとするごときである。このような特別の理解は別にして、一般的には在家の男女の信者をいうとみるべきである。 |
2024年4月8日 (月) 17:05時点における最新版
善男子、善女人
kulaputra कुलपुत्र, kuladuhitrī कुलदुहित्री(S)
もともとは、良家の男子、女子の意味であり、経典の中でその経典の説法を聞く相手(対告衆)に仏が呼びかけられる時に用いられる。その点で、善男子、善女人とは、一般に信者の通称といってもよいであろう。しかし、この呼びかけかたから、いろいろの経典のすがたを考えることがある。
たとえば、この善男子善女人は
- 比丘〈bhikṣu, bhikkhu〉
- 比丘尼〈bhikṣunī, bhikkhunī〉
- 優婆塞〈upāsaka〉
- 優婆夷〈upāsikā〉
- 式叉摩那〈śikṣamāna, sikkhamānā〉
- 沙弥〈śrāmaṇera, sāmaṇera〉
- 沙弥尼〈śrāmaṇerikā, sāmaṇerī〉
などの七衆の中の優婆塞、優婆夷をいうとして、五戒(不殺生、不偸盗、不邪婬、不妄語、不飲酒)をたもてる在家の人をいうとするばあいのごときである。
浄土真宗の場合
浄土真宗では善男子善女人の「善」を宿世の善因と解して、宿世の善因をもって生まれた男子女子とみたり、また現世の善を修する男子女子とみたり、さらに一般的には念仏する男女のことをいうと解釈したりする。
また『阿弥陀経』にでる善男子善女人のことばをみて、この経が単なる凡夫を相手にしたものでないとするごときである。このような特別の理解は別にして、一般的には在家の男女の信者をいうとみるべきである。