「じしょうしょうじょうしん」の版間の差分
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+ | 本来的に清らかな心。煩悩は心に付着した非本来的なもの([[きゃくじんぼんのう|客塵煩悩]])であり、心の本性は清らかであるという考えをいう。<br> | ||
+ | [[しんしょうほんじょう|心性本浄]]とおなじ。『勝鬘経』などの大乗の諸経典で強調される思想。 | ||
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+ | :問う、諸法に誰れが相応するや。何の義の為の故に相応を建立するや。答う、他性が相応し自性に非ず。遍く'''自性清浄心'''に依って染・不染の法の若しくは増し、若しくは減ずることあることを了知せんが為に、是の故に建立す。〔瑜伽師地論56、T30.0608c-9a〕 |
2023年8月28日 (月) 14:30時点における最新版
自性清浄心
われわれの心は本来の姿において清浄であるとして、これを心性本浄といい、その心を自性清浄心という。
小乗では大衆部などの説。大乗ではこの心を如来蔵心、仏性と名づける。
心は本来は清浄であっても、現実においては煩悩に覆われて汚されている。この煩悩は本来はあるべきものでなく客分のようなものであるから客塵煩悩という。塵は煩悩が微細で動揺することを塵垢に喩えたもの。
本来的に清らかな心。煩悩は心に付着した非本来的なもの(客塵煩悩)であり、心の本性は清らかであるという考えをいう。
心性本浄とおなじ。『勝鬘経』などの大乗の諸経典で強調される思想。
- 問う、諸法に誰れが相応するや。何の義の為の故に相応を建立するや。答う、他性が相応し自性に非ず。遍く自性清浄心に依って染・不染の法の若しくは増し、若しくは減ずることあることを了知せんが為に、是の故に建立す。〔瑜伽師地論56、T30.0608c-9a〕