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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

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 究竟などとも訳される。①きわまり、究極のこと。ついに、最終的になどの意でも用いられる。②究極的なさとりのこと。<br>
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 [[くきょう|究竟]]などとも訳される。①きわまり、究極のこと。ついに、最終的になどの意でも用いられる。②究極的なさとりのこと。<br>
 
 『[[ろんちゅう|論註]]』には
 
 『[[ろんちゅう|論註]]』には
 
: 衆生を摂して畢竟浄に入るるがゆゑなり。  〔行巻引文 p.159〕
 
: 衆生を摂して畢竟浄に入るるがゆゑなり。  〔行巻引文 p.159〕
 
とある。なお、『涅槃経』には
 
とある。なお、『涅槃経』には
: 善男子、畢竟に二種あり。一つには荘厳畢竟、二つには究竟畢竟なり。一つには世間畢竟、二つには出世畢竟なり。  〔行巻引文 p.196〕
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: 善男子、'''畢竟'''に二種あり。一つには荘厳畢竟、二つには究竟畢竟なり。一つには世間畢竟、二つには出世畢竟なり。  〔行巻引文 p.196〕
 
と説かれている。<br>
 
と説かれている。<br>
 荘厳畢竟とは仏果を得るための因行である六波羅蜜のことをいい、究竟畢竟とは因果を超えた究極的な真理そのものである仏性のことをいう。世間畢竟・出世畢竟について、世間畢竟は荘厳畢竟、出世畢竟は究竟畢竟を指すという説、荘厳畢竟を2種に開いて世間畢竟・出世畢竟とする説の2つがある。
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 荘厳'''畢竟'''とは[[ぶっか|仏果]]を得るための[[いんぎょう|因行]]である[[ろくはらみつ|六波羅蜜]]のことをいい、究竟'''畢竟'''とは因果を超えた究極的な[[しんり|真理]]そのものである[[ぶっしょう|仏性]]のことをいう。世間畢竟・出世畢竟について、世間畢竟は荘厳畢竟、出世畢竟は究竟畢竟を指すという説、荘厳畢竟を2種に開いて世間畢竟・出世畢竟とする説の2つがある。

2023年1月25日 (水) 10:15時点における最新版

畢竟

atyanta (S)

 究竟などとも訳される。①きわまり、究極のこと。ついに、最終的になどの意でも用いられる。②究極的なさとりのこと。
 『論註』には

 衆生を摂して畢竟浄に入るるがゆゑなり。  〔行巻引文 p.159〕

とある。なお、『涅槃経』には

 善男子、畢竟に二種あり。一つには荘厳畢竟、二つには究竟畢竟なり。一つには世間畢竟、二つには出世畢竟なり。  〔行巻引文 p.196〕

と説かれている。
 荘厳畢竟とは仏果を得るための因行である六波羅蜜のことをいい、究竟畢竟とは因果を超えた究極的な真理そのものである仏性のことをいう。世間畢竟・出世畢竟について、世間畢竟は荘厳畢竟、出世畢竟は究竟畢竟を指すという説、荘厳畢竟を2種に開いて世間畢竟・出世畢竟とする説の2つがある。