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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

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 仏に会うことがなければ、仏から[[じゅき|受記]]を受けることができないので、仏となることができない。そこで、仏に出会うことが必要となる。そのために[[ぶっこくど|仏国土]]に[[おうじょう|往生]]する必要が生じるのである。それが[[じょうど|浄土]]に往生することの一番の意義である。
 
 仏に会うことがなければ、仏から[[じゅき|受記]]を受けることができないので、仏となることができない。そこで、仏に出会うことが必要となる。そのために[[ぶっこくど|仏国土]]に[[おうじょう|往生]]する必要が生じるのである。それが[[じょうど|浄土]]に往生することの一番の意義である。
  
==仏性===
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===仏性===
 
<big>tathāgata-darśana</big> (S)<br>
 
<big>tathāgata-darśana</big> (S)<br>
 
 自己の仏性をさとること。[[けんしょう|見性]]に同じ。
 
 自己の仏性をさとること。[[けんしょう|見性]]に同じ。

2022年2月15日 (火) 11:26時点における版

見仏

 報身応身の仏身に会うことをいう。
 凡夫二乗分別をもつ人間が会うのが応身仏であって、菩薩無分別心で会うのが報身仏である。宿縁のないものは応身仏にも出会うことができない。
 仏身を見ること。仏のすがたを目の当たりに見て、礼拝すること。

凡夫・二乗の心に会うことができる者を、名づけて応身とする。諸々の菩薩が、初発意から菩薩究竟地までの心で会うことができるのを、名づけて報身とする。〔大乗起信論, T32.579b〕

その必要性

 仏に会うことがなければ、仏から受記を受けることができないので、仏となることができない。そこで、仏に出会うことが必要となる。そのために仏国土往生する必要が生じるのである。それが浄土に往生することの一番の意義である。

仏性

tathāgata-darśana (S)
 自己の仏性をさとること。見性に同じ。