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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

(第1結集)
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 釈尊は、個々人の迷いや苦しみに対して、それぞれ導いたのであり、「八万四千の法門あり、八万四千の煩悩あるがゆえに」などと言われるように、教えを、教科書のように定型化、体系化して説くことはほぼなかった。つまり、まとまりに欠けていることでもあり、個々人が勝手な解釈をして、本旨がゆがめられる可能性もある。<br>
 
 釈尊は、個々人の迷いや苦しみに対して、それぞれ導いたのであり、「八万四千の法門あり、八万四千の煩悩あるがゆえに」などと言われるように、教えを、教科書のように定型化、体系化して説くことはほぼなかった。つまり、まとまりに欠けていることでもあり、個々人が勝手な解釈をして、本旨がゆがめられる可能性もある。<br>
 
 釈尊の教えが、失われたり、間違った内容で伝えられたりすることをおそれがある、ということが最初の目的であったと考えられている。なお、第一結集でまとめられた経典や戒律は、文字化されずに暗誦で伝えられたと考えられている。
 
 釈尊の教えが、失われたり、間違った内容で伝えられたりすることをおそれがある、ということが最初の目的であったと考えられている。なお、第一結集でまとめられた経典や戒律は、文字化されずに暗誦で伝えられたと考えられている。
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: 迦葉五百羅漢と共に畢波羅窟に至り、先づ阿難をして毘尼蔵を結集せしめ、後に迦葉みずから摩得勒伽蔵を結集す。〔阿育王伝4〕
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: 大迦葉五百の比丘と共に王舎城外の精舎に安居して、先づ優婆離をして毘尼蔵結集せしめ、次に阿難をして修妬路蔵と阿毘曇蔵とを結集せしむ。〔十誦律60〕
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: 初め大迦葉五百の大比丘と王舎城に至り、優波離先づ毘尼蔵を結集す。次に阿難、修多羅蔵と阿毘曇蔵とを結集す。既に三蔵を結集せし後に長老富羅那五百の比丘を率いて来たり、迦葉更にこの比丘らに対して上の如く三蔵を結集す。〔四部律54〕
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: 大迦葉三蔵を結蔵せんと欲して王舎城闍崛山の中に至り阿闍世王に告ぐ、我等に食を賜りて日日に送付せよ、今我等経蔵を結集せん為め他行を作さず三月此に安居せんと。初の十五日説戒の時に大衆を集め、迦葉禅定に入り天眼を以て之を観るに、一千人の中、独り阿難一人未だ余垢を尽して阿羅漢となり、直に入て千数に加はる。是に於て阿難をして先づ修妬路法蔵を結集せしめ、次に優波利をして毘尼蔵を結集せしめ、後に復た阿難をして阿毘曇蔵を結集せしむ。〔大智度論2〕
  
 
===第2結集===
 
===第2結集===
 
 その後のインドにおける主な結集としては、仏滅後100年頃、戒律上の異議が生じたことを契機に、[[びしゃり|毘舎離]](ヴァイシャーリー)で700人の比丘を集めて開かれたとされる第2回結集(七百結集)、滅後200年に[[あいいくおう|阿育王]](アショーカ王)の治下、パータリプトラ(華氏城(けしじょう))で1千人の比丘を集めて行われたという第3回結集(千人結集)、紀元後2世紀頃[[カニシカ]]王のもとでカシミールの比丘5百人を集めて開かれたという第4回結集などが知られている。<br>
 
 その後のインドにおける主な結集としては、仏滅後100年頃、戒律上の異議が生じたことを契機に、[[びしゃり|毘舎離]](ヴァイシャーリー)で700人の比丘を集めて開かれたとされる第2回結集(七百結集)、滅後200年に[[あいいくおう|阿育王]](アショーカ王)の治下、パータリプトラ(華氏城(けしじょう))で1千人の比丘を集めて行われたという第3回結集(千人結集)、紀元後2世紀頃[[カニシカ]]王のもとでカシミールの比丘5百人を集めて開かれたという第4回結集などが知られている。<br>
 
 この第3回・第4回の結集については南伝・北伝の両仏教の伝承が一致していない。
 
 この第3回・第4回の結集については南伝・北伝の両仏教の伝承が一致していない。

2024年8月20日 (火) 14:34時点における版

結集

saṃgīti、संगीति (S)

 原語の意味は「ともに歌うこと」である。比丘たちが集まって釈迦の教えを誦出<じゅしゅつ>し、互いの記憶を確認しながら、合議の上で聖典を編集した聖典編纂会議のこと。 釈迦の滅後数百年間、その教えはもっぱら記憶暗唱を頼りとして受け継がれたから、その散逸を防ぎ、また教団の統一化をはかるためには、このような結集が幾度か必要とされた。

第1結集

 伝承によると、ブッダの滅後、王舎城(ラージャグリハ)郊外に五百人の比丘たちが集まり、最初の結集が開かれたという(五百結集)。このときは、摩訶迦葉(マハーカーシャパ)が座長となり、阿難(アーナンダ)と優波離(ウパーリ)が、それぞれ(教法)と(戒律)の編集主任を担当した。

 釈尊は、個々人の迷いや苦しみに対して、それぞれ導いたのであり、「八万四千の法門あり、八万四千の煩悩あるがゆえに」などと言われるように、教えを、教科書のように定型化、体系化して説くことはほぼなかった。つまり、まとまりに欠けていることでもあり、個々人が勝手な解釈をして、本旨がゆがめられる可能性もある。
 釈尊の教えが、失われたり、間違った内容で伝えられたりすることをおそれがある、ということが最初の目的であったと考えられている。なお、第一結集でまとめられた経典や戒律は、文字化されずに暗誦で伝えられたと考えられている。

 迦葉五百羅漢と共に畢波羅窟に至り、先づ阿難をして毘尼蔵を結集せしめ、後に迦葉みずから摩得勒伽蔵を結集す。〔阿育王伝4〕
 大迦葉五百の比丘と共に王舎城外の精舎に安居して、先づ優婆離をして毘尼蔵結集せしめ、次に阿難をして修妬路蔵と阿毘曇蔵とを結集せしむ。〔十誦律60〕
 初め大迦葉五百の大比丘と王舎城に至り、優波離先づ毘尼蔵を結集す。次に阿難、修多羅蔵と阿毘曇蔵とを結集す。既に三蔵を結集せし後に長老富羅那五百の比丘を率いて来たり、迦葉更にこの比丘らに対して上の如く三蔵を結集す。〔四部律54〕
 大迦葉三蔵を結蔵せんと欲して王舎城闍崛山の中に至り阿闍世王に告ぐ、我等に食を賜りて日日に送付せよ、今我等経蔵を結集せん為め他行を作さず三月此に安居せんと。初の十五日説戒の時に大衆を集め、迦葉禅定に入り天眼を以て之を観るに、一千人の中、独り阿難一人未だ余垢を尽して阿羅漢となり、直に入て千数に加はる。是に於て阿難をして先づ修妬路法蔵を結集せしめ、次に優波利をして毘尼蔵を結集せしめ、後に復た阿難をして阿毘曇蔵を結集せしむ。〔大智度論2〕

第2結集

 その後のインドにおける主な結集としては、仏滅後100年頃、戒律上の異議が生じたことを契機に、毘舎離(ヴァイシャーリー)で700人の比丘を集めて開かれたとされる第2回結集(七百結集)、滅後200年に阿育王(アショーカ王)の治下、パータリプトラ(華氏城(けしじょう))で1千人の比丘を集めて行われたという第3回結集(千人結集)、紀元後2世紀頃カニシカ王のもとでカシミールの比丘5百人を集めて開かれたという第4回結集などが知られている。
 この第3回・第4回の結集については南伝・北伝の両仏教の伝承が一致していない。