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ねんぶんどしゃ
 
ねんぶんどしゃ
  
「年料度者」「年分学生(がくしょう)」「年分」ともいう。毎年諸宗・諸大寺に一定数の度者枠を設け、そのなかでおのおの所定の経論による試験に通った者に[[とくど|得度]]を許可する制度。つまり、国が僧侶の認定試験を行い、経済的なバックアップをしたということである。この試験に通らなかった僧は、私度僧と呼ばれた。
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「年料度者」「年分学生(がくしょう)」「年分」ともいう。毎年諸宗・諸大寺に一定数の度者枠を設け、そのなかでおのおの所定の経論による試験に通った者に[[とくど|得度]]を許可する制度。つまり、国が僧侶の認定試験を行い、経済的なバックアップをしたということである。この試験に通らなかった僧は、[[しどそう|私度僧]]と呼ばれた。
  
 
* [[696年]](持統10)の、[[こんこうみょうきょう|金光明経]]読誦(どくじゅ)のために毎年12月に度者10人を定めたことが、最初であった。しかし、奈良時代の実態は不明である。<br>
 
* [[696年]](持統10)の、[[こんこうみょうきょう|金光明経]]読誦(どくじゅ)のために毎年12月に度者10人を定めたことが、最初であった。しかし、奈良時代の実態は不明である。<br>

2004年4月16日 (金) 16:55時点における版

年分度者

ねんぶんどしゃ

「年料度者」「年分学生(がくしょう)」「年分」ともいう。毎年諸宗・諸大寺に一定数の度者枠を設け、そのなかでおのおの所定の経論による試験に通った者に得度を許可する制度。つまり、国が僧侶の認定試験を行い、経済的なバックアップをしたということである。この試験に通らなかった僧は、私度僧と呼ばれた。

  • 696年(持統10)の、金光明経読誦(どくじゅ)のために毎年12月に度者10人を定めたことが、最初であった。しかし、奈良時代の実態は不明である。
  • 平安初期に、まず三論宗法相宗について認められたのが、常設化された最初である。
  • 806年(大同1)、最澄の上表によって、南都六宗天台宗について計12名の本格的年分度者制が定められた。
  • 後になって、真言宗が加えられ、さらには神護寺など定額寺(じょうがくじ、官寺に次ぐ寺格の寺院)にも認められ、その数は増加の一途をたどった。
  • 10世紀後期には有名無実化した。