操作

「マガダ」の版間の差分

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

(新しいページ: '=摩竭陀= magadha(skt.)、 摩掲陀、摩伽陀とも音写する。  古代インドの国名で、現在のビハール州のガヤーおよびパトナを中心とす...')
 
(摩竭陀)
 
1行目: 1行目:
 
=摩竭陀=
 
=摩竭陀=
magadha(skt.)、 摩掲陀、摩伽陀とも音写する。
+
Magadha(skt.)、 摩掲陀、摩伽陀とも音写する。
  
 
 古代インドの国名で、現在のビハール州のガヤーおよびパトナを中心とするガンジス河南方の地域。<br>
 
 古代インドの国名で、現在のビハール州のガヤーおよびパトナを中心とするガンジス河南方の地域。<br>
 古代インド文化の中心地であり、仏教・[[じゃいなきょう|ジャイナ教]]の発生地である。[[しゃくそん|釈尊]]在世時代は、[[びんばしゃら|頻婆娑羅]](bimbasaara)王とその子の[[あじゃせ|阿闍世]](ajaatazatru)王の統治下にあり、[[おうしゃじょう|王舎城]](raajagRha, 現在のラージギル)を都として、16大国と呼ばれる盛んな国の随一の勢力があったとされる。釈尊の教化活動の大半はこの地方で行われ、以後もこの地方は仏教文化の中心地の一つであった。<br>
+
 古代インド文化の中心地であり、仏教・[[じゃいなきょう|ジャイナ教]]の発生地である。[[しゃくそん|釈尊]]在世時代は、[[びんばしゃら|頻婆娑羅]](Bimbasāra)王とその子の[[あじゃせ|阿闍世]](Ajātaśatru)王の統治下にあり、[[おうしゃじょう|王舎城]](Rājagṛha, 現在のラージギル)を都として、16大国と呼ばれる盛んな国の随一の勢力があったとされる。釈尊の教化活動の大半はこの地方で行われ、以後もこの地方は仏教文化の中心地の一つであった。<br>
 アジャータシャトルの後継者であるウダーイバドラ(udaayibhadra)の時に、[[けしじょう|華氏城]](paaTaliputra)に遷都した。その後、ナンダ王朝を経て、マウリヤ王朝にいたって、ほとんど全インドを統一する大帝国となった。このマウリヤ王朝の第3代が[[あいくおう|阿育王]](azoka)である。<br>
+
 アジャータシャトルの後継者であるウダーイバドラ(Udāyibhadra)の時に、[[けしじょう|華氏城]](Pāṭaliputra)に遷都した。その後、ナンダ王朝を経て、マウリヤ王朝にいたって、ほとんど全インドを統一する大帝国となった。このマウリヤ王朝の第3代が[[あいくおう|阿育王]](Aśzoka)である。<br>
 マウリヤ王朝に続くシュンガ王朝以後は、マガダの勢力は衰え、一時はインド南部のアーンドラ王朝の支配下にも入ったが、4世紀にグプタ王朝が興って、マガダは再びインドの政治・文化の中心地となった。グプタ王朝の衰退とともに混乱状態がつづき、7世紀前半には[[かいにちおう|戒日王]](harSa)の支配下に入ったが、その後8世紀中葉にベンガルに興ったパーラ王朝の支配下に入り、[[ならんだじ|那爛陀寺]](naalandaa)を中心として密教が盛んとなった。<br>
+
 マウリヤ王朝に続くシュンガ王朝以後は、マガダの勢力は衰え、一時はインド南部のアーンドラ王朝の支配下にも入ったが、4世紀にグプタ王朝が興って、マガダは再びインドの政治・文化の中心地となった。グプタ王朝の衰退とともに混乱状態がつづき、7世紀前半には[[かいにちおう|戒日王]](Harṣa)の支配下に入ったが、その後8世紀中葉にベンガルに興ったパーラ王朝の支配下に入り、[[ならんだじ|那爛陀寺]](Nālandā)を中心として密教が盛んとなった。<br>
 
 1197年、パーラ王朝はイスラム教徒のために滅亡し、マガダは衰退した。
 
 1197年、パーラ王朝はイスラム教徒のために滅亡し、マガダは衰退した。

2017年4月14日 (金) 08:25時点における最新版

摩竭陀

Magadha(skt.)、 摩掲陀、摩伽陀とも音写する。

 古代インドの国名で、現在のビハール州のガヤーおよびパトナを中心とするガンジス河南方の地域。
 古代インド文化の中心地であり、仏教・ジャイナ教の発生地である。釈尊在世時代は、頻婆娑羅(Bimbasāra)王とその子の阿闍世(Ajātaśatru)王の統治下にあり、王舎城(Rājagṛha, 現在のラージギル)を都として、16大国と呼ばれる盛んな国の随一の勢力があったとされる。釈尊の教化活動の大半はこの地方で行われ、以後もこの地方は仏教文化の中心地の一つであった。
 アジャータシャトルの後継者であるウダーイバドラ(Udāyibhadra)の時に、華氏城(Pāṭaliputra)に遷都した。その後、ナンダ王朝を経て、マウリヤ王朝にいたって、ほとんど全インドを統一する大帝国となった。このマウリヤ王朝の第3代が阿育王(Aśzoka)である。
 マウリヤ王朝に続くシュンガ王朝以後は、マガダの勢力は衰え、一時はインド南部のアーンドラ王朝の支配下にも入ったが、4世紀にグプタ王朝が興って、マガダは再びインドの政治・文化の中心地となった。グプタ王朝の衰退とともに混乱状態がつづき、7世紀前半には戒日王(Harṣa)の支配下に入ったが、その後8世紀中葉にベンガルに興ったパーラ王朝の支配下に入り、那爛陀寺(Nālandā)を中心として密教が盛んとなった。
 1197年、パーラ王朝はイスラム教徒のために滅亡し、マガダは衰退した。