「しきむへんしょじょう」の版間の差分
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[[しき|識]]というのは、眼耳鼻舌身意の前5識と[[がしき|我識]]・[[あらやしき|阿頼耶識]]の全部で7つの心識のことである。その心識が無辺であると観ずる[[ぜんじょう|禅定]]の境地である。認識作用が無限であるという禅定の境地であると考えられる。[[ゆがぎょうゆいしき|瑜伽行唯識]]などでは、前5識の認識作用と同時に、阿頼耶識に蓄積した[[しゅうじ|種子]]が無量であることも指している。<br> | [[しき|識]]というのは、眼耳鼻舌身意の前5識と[[がしき|我識]]・[[あらやしき|阿頼耶識]]の全部で7つの心識のことである。その心識が無辺であると観ずる[[ぜんじょう|禅定]]の境地である。認識作用が無限であるという禅定の境地であると考えられる。[[ゆがぎょうゆいしき|瑜伽行唯識]]などでは、前5識の認識作用と同時に、阿頼耶識に蓄積した[[しゅうじ|種子]]が無量であることも指している。<br> | ||
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2013年2月1日 (金) 08:57時点における最新版
識無辺処定
識というのは、眼耳鼻舌身意の前5識と我識・阿頼耶識の全部で7つの心識のことである。その心識が無辺であると観ずる禅定の境地である。認識作用が無限であるという禅定の境地であると考えられる。瑜伽行唯識などでは、前5識の認識作用と同時に、阿頼耶識に蓄積した種子が無量であることも指している。
空無辺処定に続いて入る禅定であるから、外界の虚空の相をきらって、内なる識を観じて、心識が無辺であると観じる境地を得る禅定のことを指す。
四無色定の一つ。