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「しょぎょうむじょう」の版間の差分

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

(諸行無常)
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しょぎょうむじょう、sabbe-saMkhaaraa-aniccaa सब्ब ऻम॑खारा अफि&#xब्बा
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しょぎょうむじょう、<big>sabbe-saṃkhārā-aniccā</big> &#x0938;&#x092c;&#x094d;&#x092c; &#x093b;&#x092e;&#x0951;&#x0916;&#x093e;&#x0930;&#x093e; &#x0905;&#x092b;&#x093f;&#x&#x092c;&#x094d;&#x092c;&#x093e;
  
 
 現実存在はすべて、すがたも本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができないことをいう。この場合、諸行とは一切のつくられたもの、もしくはできあがったもの、[[ういほう|有為法]]をいう。[[さんぼういん|三法印]]、[[しほういん|四法印]]のひとつ。
 
 現実存在はすべて、すがたも本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができないことをいう。この場合、諸行とは一切のつくられたもの、もしくはできあがったもの、[[ういほう|有為法]]をいう。[[さんぼういん|三法印]]、[[しほういん|四法印]]のひとつ。
  
 諸行の「行」については、[[ぎょう|行]]のsaNkhaaraの項に詳しい。
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 諸行の「行」については、[[ぎょう|行]]のsaṇkhāraの項に詳しい。
  
 
 初期の経典に「無常」(anicca)という語は、ほとんど出てこない。ただ、『ダンマパダ』に‥‥
 
 初期の経典に「無常」(anicca)という語は、ほとんど出てこない。ただ、『ダンマパダ』に‥‥
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:279「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
 
:279「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
  
ここに一度だけaniccaが“sabbe saGkhaaraa aniccaa”として出てくる。
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ここに一度だけaniccaが“sabbe sańkhārā aniccā”として出てくる。
  
 
==諸行無常偈==
 
==諸行無常偈==
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 [[パーリ]]語ではこの偈は次のようである。
 
 [[パーリ]]語ではこの偈は次のようである。
:諸行無常      aniccaa vata saGkhaara
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:諸行無常      aniccā vata sańkhāra
:是性滅法      uppaadavayadhammo
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:是性滅法      uppādavayadhammo
:生滅滅已      uppajjitvaa nirujjhanti
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:生滅滅已      uppajjitvā nirujjhanti
:寂滅為楽      tesaM ruupasamo sukho
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:寂滅為楽      tesaṃ rūpasamo sukho
  
 
 三法印・四法印は[[しゃか|釈迦]]のさとりの内容であるとされているが、釈迦が「諸行無常」を感じて出家したという記述が、初期の『''[[あごんきょう|阿含経]]'' 』に多く残されている。
 
 三法印・四法印は[[しゃか|釈迦]]のさとりの内容であるとされているが、釈迦が「諸行無常」を感じて出家したという記述が、初期の『''[[あごんきょう|阿含経]]'' 』に多く残されている。

2020年5月25日 (月) 09:06時点における版

諸行無常

しょぎょうむじょう、sabbe-saṃkhārā-aniccā सब्ब ऻम॑खारा अफि&#xब्बा

 現実存在はすべて、すがたも本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができないことをいう。この場合、諸行とは一切のつくられたもの、もしくはできあがったもの、有為法をいう。三法印四法印のひとつ。

 諸行の「行」については、のsaṇkhāraの項に詳しい。

 初期の経典に「無常」(anicca)という語は、ほとんど出てこない。ただ、『ダンマパダ』に‥‥

277「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
278 「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
279「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。

ここに一度だけaniccaが“sabbe sańkhārā aniccā”として出てくる。

諸行無常偈

 涅槃経 に「諸行無常。是生滅法。生滅滅已。寂滅為楽」とあり、これを諸行無常偈と呼ぶ。雪山童子はこの中の後半偈を聞く為に身を羅刹に捨てしなり。これより雪山偈とも言われる。

 「諸行は無常であってこれは生滅の法であり、生滅の法はである。」この半偈は流転門。 「この生と滅とを滅しおわって、生なく滅なきを寂滅とす。寂滅は即ち涅槃、是れ楽なり。」「為楽」というのは、涅槃楽を受けるというのではない。有為の苦に対して寂滅を楽といっているだけである。後半偈は還滅門。

 弘法大師空海が作ったとされる「いろは歌」はこの偈を詠んだものであると言われている。

いろはにほへどちりぬるを    諸行無常
わがよたれぞつねならむ     是生滅法
うゐのおくやまけふこえて    生滅滅己
あさきゆめみじゑひもせず    寂滅為楽

 パーリ語ではこの偈は次のようである。

諸行無常 aniccā vata sańkhāra
是性滅法 uppādavayadhammo
生滅滅已 uppajjitvā nirujjhanti
寂滅為楽 tesaṃ rūpasamo sukho

 三法印・四法印は釈迦のさとりの内容であるとされているが、釈迦が「諸行無常」を感じて出家したという記述が、初期の『阿含経 』に多く残されている。