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2017年8月6日 (日) 17:17時点における版
観察
vipaśyanā (S)、vīmaṃsaka (P)
観察がvipaśanā(毘婆舎那)の訳語である場合は、「観」と同じであり、止(śamatha 奢摩他)に対している。
慧、すなわち澄みきった理知のはたらき、によってもろもろの法のすがたや性質を観察することを意味する。観察の対象たる法は、時に心の中に浮かべる種々のイメージ(その場合の観察は観想ともいう)であり、自身の心の本性(その場合の観察は観心ともいう)であり、あるいは、仏のもつ諸徳性(その場合の観察は観仏ともいう)であったりする。
東アジアの浄土教では、観察はその実践の一部門(五念門の第4、五正行の第2)として重んぜられ、阿弥陀仏、その仏国土、およびそこに在る諸菩薩、それらのすぐれた徳性が観察の対象とされる。
観察する比丘は、他者の心の区別をよく知らない場合、如来について、〈かれは正自覚者であるのか、そうでないのか〉とこのように識るために、吟味を行なうべきである。 〔マッジマ・ニカーヤ No.47 観察経〕