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− | * | + | *「僧に帰依し奉る」「南無帰依僧」〈sanghaṃsaraṇaṃ gacchaami) |
具体的に現実に出世された釈尊は入滅されたので、生身(しょうしん)の釈尊を思慕する人々は、これを[[てんぽうりん|転法輪]]や[[ぶっそく|仏足]]などであらわして、これを礼拝の対象とした。<br> | 具体的に現実に出世された釈尊は入滅されたので、生身(しょうしん)の釈尊を思慕する人々は、これを[[てんぽうりん|転法輪]]や[[ぶっそく|仏足]]などであらわして、これを礼拝の対象とした。<br> | ||
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===同体三宝=== | ===同体三宝=== |
2022年3月8日 (火) 10:51時点における版
三宝
(triratna,ratna-traya)
仏、法、僧の三をいい、この三つは世間において勝れたものであるとして「宝」という。聖徳太子が『十七条憲法』に「篤敬三宝」といわれ、伝教大師が僧をもって国宝といわれたのも、この意味を示している。
意味
仏〈buddha)とはさとった者としての教主そのもの、法〈dharma)とは仏の教え、僧〈saṃgha)とは、その教えを信奉する人々の集団であり、僧伽といわれる。
この三宝は当初は、釈尊を仏宝、その教えとして四諦十二因縁などを法宝、釈尊の信奉者としての比丘・比丘尼、また優婆塞、優婆夷などの在家の信者をも含めた仏教教団を僧宝といった。しかし、仏滅後にもこの三宝はあるべきとして、仏像や経巻や出家の集団等を仏法僧の三宝というようにもなった。
現に入滅された釈尊を慕ってはじめられたのが、このような三宝を立てることになったから、そこでは仏や法や僧に教義的な説明が必要となった。そこで、仏とは覚知の義、法とは法軌の義、僧とは和合の義であるなどと註釈的な三宝になった。
当初は具体的に師としての釈尊という仏がおられ、人々に対していつでも説法され、また釈尊と共にいた弟子たちは、自ら和合教団を形造っていた。そこには具体的な三宝があった。そこで、あとからの信奉者たちが、この教団に入ろうとする時には、何よりも、三宝に帰依することが必要であり、とくに仏に帰依することが大切であった。そこで、仏教教団への入門には儀式として、この帰依三宝を誓わなくてはならなくなった。
帰依三宝
- 「仏に帰依し奉る」「南無帰依仏」〈buddhaṃsaraṇaṃ gacchaami)
- 「法に帰依し奉る」「南無帰依法」〈dhammaṃsaraṇaṃ gacchaami)
- 「僧に帰依し奉る」「南無帰依僧」〈sanghaṃsaraṇaṃ gacchaami)
具体的に現実に出世された釈尊は入滅されたので、生身(しょうしん)の釈尊を思慕する人々は、これを転法輪や仏足などであらわして、これを礼拝の対象とした。
仏入滅後も法身〈dharma-kāya)を仰ぎ、さらに報身〈niṣyanda-kāya,saṃbhoga-kāya,vipāka-kāya)として礼するようになり、そこに具象的な仏像をつくり出した。このように仏宝は仏像、法宝は真理・真実であると考え、僧宝は和合僧であるとして、抽象的なものとなっていった。
同体三宝
同体三宝とは三宝の一々について、それぞれの三宝の意味をもっているとして、三宝一体とみるわけである。たとえば仏宝のうえに仏のもつ覚証の義が仏宝、仏のもつ軌則性、それが法宝、仏のもつ正しさ、すなわち違諍の過失のないところが和合他の僧宝であるというようである。
別体三宝
別相三宝とは、大乗であれば、諸仏の三身が仏宝、その教えとしての六波羅蜜が法宝、十聖を僧宝とし、小乗であれば丈六の化身である釈尊を仏宝、四諦十二因縁が法宝、四果と独覚を僧宝とする。
住持三宝
住持三宝とは、釈尊滅後に世間に住するものとして、木像や画像が仏宝、経典や律典の文々句々が法宝、剃髪染衣は僧宝なりという。
三宝加持
仏法僧の三が世間の宝物であり、無上の勝れた働きをもつという考えは、このような三宝の加護を蒙ることを望むこととなる。このような願いが「三宝加持」という形であらわれ、それによって種々なる罪障が排除されるという加持祈祷がなされている。このような三宝の受けとり方が、人間の危機に「南無三宝」などと叫ぶことになったと思われる。
カマドの神
このように大切な三宝を守護する天神を三宝荒神という。古来から、この三宝を守護する荒神を「カマド」の神様としている。その由来は明らかではないが、この三宝が不浄を忌むということから、清浄なところに住居しているにちがいないという点で、清浄を示す火のあるところ「カマド」に住居するとしたものであろうと考えられる。