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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
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観察がvipaśanā([[びばしゃな|毘婆舎那]])の訳語である場合は、「'''観'''」と同じであり、止(śamatha [[しゃまた|奢摩他]])に対している。 | 観察がvipaśanā([[びばしゃな|毘婆舎那]])の訳語である場合は、「'''観'''」と同じであり、止(śamatha [[しゃまた|奢摩他]])に対している。 | ||
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観察する比丘は、他者の心の区別をよく知らない場合、如来について、「かれは正自覚者であるのか、そうでないのか」とこのように識るために、吟味を行なうべきである。 〔マッジマ・ニカーヤ No.47 観察経〕 | 観察する比丘は、他者の心の区別をよく知らない場合、如来について、「かれは正自覚者であるのか、そうでないのか」とこのように識るために、吟味を行なうべきである。 〔マッジマ・ニカーヤ No.47 観察経〕 |
2024年3月24日 (日) 15:21時点における版
観察
vipaśyanā विपश्यना (S)、vīmaṃsaka वीमंसक (P)
観察がvipaśanā(毘婆舎那)の訳語である場合は、「観」と同じであり、止(śamatha 奢摩他)に対している。
慧、すなわち澄みきった理知のはたらき、によってもろもろの法のすがたや性質を観察することを意味する。観察の対象たる法は、時に心の中に浮かべる種々のイメージ(その場合の観察は観想ともいう)であり、自身の心の本性(その場合の観察は観心ともいう)であり、あるいは、仏のもつ諸徳性(その場合の観察は観仏ともいう)であったりする。
東アジアの浄土教では、観察はその実践の一部門(五念門の第4、五正行の第2)として重んぜられ、阿弥陀仏、その仏国土、およびそこに在る諸菩薩、それらのすぐれた徳性が観察の対象とされる。
初期仏教の観察
vicāra विचार (P) =investigation, examination, consideration, deliberation.
観察する比丘は、他者の心の区別をよく知らない場合、如来について、「かれは正自覚者であるのか、そうでないのか」とこのように識るために、吟味を行なうべきである。 〔マッジマ・ニカーヤ No.47 観察経〕
vīmaṃsakaには3種の観察者が説かれている。
- attha-vīmaṃsaka 自利(attattha)利他(parattha)などの利益を知る、利益の観察者
- sańkhāra-vīmaṃsaka 行の観察者、もろもろの有為法(sańkhara-dhamma)を自相(salakkhaṇa)より、平等相(sāmañña-lakkhaṇa)より、あるいは処(āyatana)などの区分より観察する者。
- satthu-vīmaṃsaka 師の観察者。「師は徳(guṇa)からこれだけのお方である」と師を観察する者。
上の経典では、この第3の師の観察者を語っている。