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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

(結集)
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釈迦の滅後数百年間、その教えはもっぱら記憶暗唱を頼りとして受け継がれたから、その散逸を防ぎ、また教団の統一化をはかるためには、このような結集が幾度か必要とされた。
 
釈迦の滅後数百年間、その教えはもっぱら記憶暗唱を頼りとして受け継がれたから、その散逸を防ぎ、また教団の統一化をはかるためには、このような結集が幾度か必要とされた。
  
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===第1結集===
 
 伝承によると、ブッダの滅後、[[おうしゃじょう|王舎城]](ラージャグリハ)郊外に五百人の[[びく|比丘]]たちが集まり、最初の結集が開かれたという(五百結集)。このときは、[[まかかしょう|摩訶迦葉]](マハーカーシャパ)が座長となり、[[あなん|阿難]](アーナンダ)と[[うぱり|優波離]](ウパーリ)が、それぞれ[[きょう|経]](教法)と[[りつ|律]](戒律)の編集主任を担当した。
 
 伝承によると、ブッダの滅後、[[おうしゃじょう|王舎城]](ラージャグリハ)郊外に五百人の[[びく|比丘]]たちが集まり、最初の結集が開かれたという(五百結集)。このときは、[[まかかしょう|摩訶迦葉]](マハーカーシャパ)が座長となり、[[あなん|阿難]](アーナンダ)と[[うぱり|優波離]](ウパーリ)が、それぞれ[[きょう|経]](教法)と[[りつ|律]](戒律)の編集主任を担当した。
  
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===第2結集===
 
 その後のインドにおける主な結集としては、仏滅後100年頃、戒律上の異議が生じたことを契機に、[[びしゃり|毘舎離]](ヴァイシャーリー)で700人の比丘を集めて開かれたとされる第2回結集(七百結集)、滅後200年に[[あいいくおう|阿育王]](アショーカ王)の治下、パータリプトラ(華氏城(けしじょう))で1千人の比丘を集めて行われたという第3回結集(千人結集)、紀元後2世紀頃[[カニシカ]]王のもとでカシミールの比丘5百人を集めて開かれたという第4回結集などが知られている。<br>
 
 その後のインドにおける主な結集としては、仏滅後100年頃、戒律上の異議が生じたことを契機に、[[びしゃり|毘舎離]](ヴァイシャーリー)で700人の比丘を集めて開かれたとされる第2回結集(七百結集)、滅後200年に[[あいいくおう|阿育王]](アショーカ王)の治下、パータリプトラ(華氏城(けしじょう))で1千人の比丘を集めて行われたという第3回結集(千人結集)、紀元後2世紀頃[[カニシカ]]王のもとでカシミールの比丘5百人を集めて開かれたという第4回結集などが知られている。<br>
 
 この第3回・第4回の結集については南伝・北伝の両仏教の伝承が一致していない。
 
 この第3回・第4回の結集については南伝・北伝の両仏教の伝承が一致していない。

2024年8月17日 (土) 12:31時点における版

結集

saṃgīti、संगीति (S)

 原語の意味は「ともに歌うこと」である。比丘たちが集まって釈迦の教えを誦出<じゅしゅつ>し、互いの記憶を確認しながら、合議の上で聖典を編集した聖典編纂会議のこと。 釈迦の滅後数百年間、その教えはもっぱら記憶暗唱を頼りとして受け継がれたから、その散逸を防ぎ、また教団の統一化をはかるためには、このような結集が幾度か必要とされた。

第1結集

 伝承によると、ブッダの滅後、王舎城(ラージャグリハ)郊外に五百人の比丘たちが集まり、最初の結集が開かれたという(五百結集)。このときは、摩訶迦葉(マハーカーシャパ)が座長となり、阿難(アーナンダ)と優波離(ウパーリ)が、それぞれ(教法)と(戒律)の編集主任を担当した。

第2結集

 その後のインドにおける主な結集としては、仏滅後100年頃、戒律上の異議が生じたことを契機に、毘舎離(ヴァイシャーリー)で700人の比丘を集めて開かれたとされる第2回結集(七百結集)、滅後200年に阿育王(アショーカ王)の治下、パータリプトラ(華氏城(けしじょう))で1千人の比丘を集めて行われたという第3回結集(千人結集)、紀元後2世紀頃カニシカ王のもとでカシミールの比丘5百人を集めて開かれたという第4回結集などが知られている。
 この第3回・第4回の結集については南伝・北伝の両仏教の伝承が一致していない。