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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

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 中国、日本などの[[そとば|卒塔婆]]、塔婆、塔という語もストゥーパに由来する。<br>
 
 中国、日本などの[[そとば|卒塔婆]]、塔婆、塔という語もストゥーパに由来する。<br>
 伝説によると仏陀の入滅後、火葬骨(仏舎利)が分割されて8基の仏塔が建てられ、アショーカ王の時代にこれを発掘して、再分割して8万4千基の仏塔が建てられたという。<br>
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 伝説によると仏陀の入滅後、火葬骨(仏舎利)が分割されて8基の仏塔が建てられ、アショーカ王の時代にこのうち7基を発掘して、再分割して8万4千基の仏塔が建てられたという。<br>
 
 初期のストゥーパは、サンチー大塔(前2~1世紀)のように、円形平面の基壇の上に半球形の覆鉢を築き、頂部に箱形の平頭(へいとう、ひょうず)を載せ、傘蓋(さんがい)を立てるのが原則であった。基壇の外側には繞道(にょうどう)をへだてて欄楯(らんじゅん。玉垣)をめぐらし、四方に塔門を開き、基壇、欄楯、塔門などにジャータカなどを内容とする具象的な彫刻を施している。参詣者は繞道を太陽と同じ方向(右回り)にめぐるのがならわしである。<br>
 
 初期のストゥーパは、サンチー大塔(前2~1世紀)のように、円形平面の基壇の上に半球形の覆鉢を築き、頂部に箱形の平頭(へいとう、ひょうず)を載せ、傘蓋(さんがい)を立てるのが原則であった。基壇の外側には繞道(にょうどう)をへだてて欄楯(らんじゅん。玉垣)をめぐらし、四方に塔門を開き、基壇、欄楯、塔門などにジャータカなどを内容とする具象的な彫刻を施している。参詣者は繞道を太陽と同じ方向(右回り)にめぐるのがならわしである。<br>
 ストゥーパの規模は直径40~50mから1mに満たないものまであり、戸外のほか堂内や石窟内に設けるものもあった。時代が下ると覆鉢が相対的に退化し基壇、平頭、傘蓋が複雑な形に発達した。
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 ストゥーパの規模は直径40~50mから1mに満たないものまであり、戸外のほか堂内や石窟内に設けるものもあった。時代が下ると覆鉢が相対的に退化し基壇、平頭、傘蓋が複雑な形に発達した。<br>
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 欄楯には、当初は[[ぼだいじゅ|菩提樹]]・[[ほうざ|法座]]・[[ほうりん|法輪]]などの象徴的なレリーフが彫られていた。それは釈尊は[[じょうどう|成道]]をもって[[ねはん|涅槃]]に入ったのだから、肉体を離れた存在であり、真理([[ほう|法]])そのもの([[ほっしん|法身]])と一体視され、それを姿かたちで表現するのは適切ではない、という理由であった。<br>
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 のちには、[[ぶつでん|仏伝]]や[[ぜんしょうわ|前生話]]を表現したレリーフが描かれるようになった。これを説明するための[[ほっし|法師]]によって、釈尊の生涯や教えが説かれた。これによって[[だいじょうぶっきょう|大乗仏教]]の発生したという説もある。
  
 
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 仏教がアジア各地へ伝播するにつれて、このようなストゥーパを祖形としながら特色のある多様な仏塔が生み出された。スリランカ(旧セイロン)におけるダーガバ、ミャンマー(旧ビルマ)やインドシナにおけるパゴダ、チベットにおけるラマ塔、中国、朝鮮、日本における層塔(三・五・七重塔)などがそれである。仏教徒のほかジャイナ教徒も、少数ではあるが聖者の遺骨や遺物を祀るストゥーパを建てた。
 
 仏教がアジア各地へ伝播するにつれて、このようなストゥーパを祖形としながら特色のある多様な仏塔が生み出された。スリランカ(旧セイロン)におけるダーガバ、ミャンマー(旧ビルマ)やインドシナにおけるパゴダ、チベットにおけるラマ塔、中国、朝鮮、日本における層塔(三・五・七重塔)などがそれである。仏教徒のほかジャイナ教徒も、少数ではあるが聖者の遺骨や遺物を祀るストゥーパを建てた。

2024年9月5日 (木) 11:38時点における最新版

仏塔

 仏教的な塔の総称。本来は釈尊の遺骨(舎利)を安置する場所で、原初形態はインドのストゥーパの覆鉢(ふくはつ)形と考えられる。
 仏教の伝播、発展に伴い、各地で各種の形態が生じたが、日本での造塔の初めは、敏達14(585)年に蘇我馬子が建てた大野丘の塔。その後,多種多様の塔が営まれ、おもなものに重層塔、宝塔、多宝塔、宝篋印(ほうきょういん)塔、相輪塔、笠塔婆、瓶塔、五輪塔、宝珠塔、無縫塔(卵塔)、碑伝(ひで)、板碑がある。

 サンスクリット語で「stūpa」は、本来ものが堆積して高くなり目立つ、という意味である。

  1. 古代インドの丸く土を盛上げた墳墓
  2. 仏陀(あるいは阿羅漢など)の遺骨(あるいは髪、持物など)を埋納し、仏教徒たちが尊崇の対象とした半球形、またそれが変化発展した形の建造物、すなわち仏塔。

 通常は(2)の意味に用いる。

初期

 中国、日本などの卒塔婆、塔婆、塔という語もストゥーパに由来する。
 伝説によると仏陀の入滅後、火葬骨(仏舎利)が分割されて8基の仏塔が建てられ、アショーカ王の時代にこのうち7基を発掘して、再分割して8万4千基の仏塔が建てられたという。
 初期のストゥーパは、サンチー大塔(前2~1世紀)のように、円形平面の基壇の上に半球形の覆鉢を築き、頂部に箱形の平頭(へいとう、ひょうず)を載せ、傘蓋(さんがい)を立てるのが原則であった。基壇の外側には繞道(にょうどう)をへだてて欄楯(らんじゅん。玉垣)をめぐらし、四方に塔門を開き、基壇、欄楯、塔門などにジャータカなどを内容とする具象的な彫刻を施している。参詣者は繞道を太陽と同じ方向(右回り)にめぐるのがならわしである。
 ストゥーパの規模は直径40~50mから1mに満たないものまであり、戸外のほか堂内や石窟内に設けるものもあった。時代が下ると覆鉢が相対的に退化し基壇、平頭、傘蓋が複雑な形に発達した。
 欄楯には、当初は菩提樹法座法輪などの象徴的なレリーフが彫られていた。それは釈尊は成道をもって涅槃に入ったのだから、肉体を離れた存在であり、真理()そのもの(法身)と一体視され、それを姿かたちで表現するのは適切ではない、という理由であった。
 のちには、仏伝前生話を表現したレリーフが描かれるようになった。これを説明するための法師によって、釈尊の生涯や教えが説かれた。これによって大乗仏教の発生したという説もある。

ひろがり

 仏教がアジア各地へ伝播するにつれて、このようなストゥーパを祖形としながら特色のある多様な仏塔が生み出された。スリランカ(旧セイロン)におけるダーガバ、ミャンマー(旧ビルマ)やインドシナにおけるパゴダ、チベットにおけるラマ塔、中国、朝鮮、日本における層塔(三・五・七重塔)などがそれである。仏教徒のほかジャイナ教徒も、少数ではあるが聖者の遺骨や遺物を祀るストゥーパを建てた。