「さんしん」の版間の差分
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#信楽 至心を体とする。阿弥陀仏から衆生に回施された利他真実の信心を指す。 | #信楽 至心を体とする。阿弥陀仏から衆生に回施された利他真実の信心を指す。 | ||
#欲生 浄土に生まれよ、と衆生を招喚する勅命のことで、信楽を体とする如来の回向心のことである。 | #欲生 浄土に生まれよ、と衆生を招喚する勅命のことで、信楽を体とする如来の回向心のことである。 | ||
− | + | 阿弥陀如来は、この三心を衆生に与えられたのであり、いずれも疑いの混じる余地がない「疑蓋無雑」という点において、まったく一つである。衆生は、この阿弥陀如来の疑蓋無雑の[[さんしんいっしん|三心即一心]]を自己を無にして本願力にまかせるという一心にいただく。 | |
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2006年8月8日 (火) 07:06時点における版
三心
観無量寿経
- 至誠心 真実に浄土を願う心
- 深心 深く浄土を願う心
- 回向発願心 修行した功徳を回向して浄土に往生しようと願う心
- 浄土真宗では、この観経の三心を「さんじん」と読む慣わしである。
無量寿経
- 至心 名号を体とする。阿弥陀仏の利他の真心をよぶ。
- 信楽 至心を体とする。阿弥陀仏から衆生に回施された利他真実の信心を指す。
- 欲生 浄土に生まれよ、と衆生を招喚する勅命のことで、信楽を体とする如来の回向心のことである。
阿弥陀如来は、この三心を衆生に与えられたのであり、いずれも疑いの混じる余地がない「疑蓋無雑」という点において、まったく一つである。衆生は、この阿弥陀如来の疑蓋無雑の三心即一心を自己を無にして本願力にまかせるという一心にいただく。
唯識
論註
- 淳心 信心が深厚であること
- 一心 信心が純一であること
- 相続心 信心が相続して余念が雜わらないこと
- もしよく相続する。すなわちこれ一心。ただよく一心すなわちこれ淳心。この三心を具して、もし生ぜざる者、ここにあることなし [安楽集]
三信
浄土真宗で無量寿経の第十八願に説かれた「至心」「信楽」「欲生我国」の三心をいう。上記参照。
- あきらかに知んぬ、至心は、すなはちこれ真実誠種の心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなきなり。信楽は、すなはちこれ真実誠満の心なり、極成用重の心なり、審験宣忠の心なり、欲願愛悦の心なり、歓喜賀慶の心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなきなり。欲生は、すなはちこれ願楽覚知の心なり、成作為興の心なり。大悲回向の心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなきなり。 いま三心の字訓を案ずるに、真実の心にして虚仮雑はることなし、正直の心にして邪偽雑はることなし。まことに知んぬ、疑蓋間雑なきがゆゑに、これを信楽と名づく。信楽すなはちこれ一心なり、一心すなはちこれ真実信心なり。このゆゑに論主(天親)、建めに「一心」といへるなりと、知るべし。 [教行信証信巻]
また、「三不三信」と使われる場合は、上記の安楽集の三心をいう。
三身
仏の三身のことをいう。
- 法身 中道の理の体である。
- 報身 因行の功徳に報いて顕れた仏の実智である。これを二分して、自ら内証の法楽を受ける身を自受用報身。初地以上の菩薩に対して応現する報身を他受用報身[勝報身]。
- 応身 応化身とも言う。理智不二の体から衆生を化度するためにさまざまに応現する身である。