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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

 
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(viMzatikaa-vijJapti-maatrataa-siddhi) 1巻、[[せしん|世親]]造、[[げんじょう|玄奘]]訳
  
 『[[ゆいしきさんじゅうじゅ|唯識三十頌]]』とならぶ[[せしん|世親]]の代表作の一つ。
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==内容==
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『唯識二十論』は、[[ぶっきょう|仏教]]以外の学派や[[ぶはぶっきょう|部派仏教]]や他の[[だいじょうぶっきょう|大乗仏教]]の立場から、唯識説に対する批判や疑問に答える形で、唯識説を明らかにしている。そのため、直接的に唯識説を体系付けて説明している『[[ゆいしきさんじゅうじゅ|唯識三十頌]]』とは構成が異なっていることに注意しなくてはならない。<br>
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唯識説の根本は「'''諸法(すべての存在現象)は識にほかならない'''」という説である。しかし、世親は[[あらやしき|阿頼耶識]]も含めて、「識は非識を自性となす」(識の本質は無である)としている。つまり、識を実在と考えず、実在([[きょう|境]])は識を超えたものであるとみている。これを説明するために、本論では夢の喩えを使って説明するが、修行者(瑜伽行者)が誤まった実在の観念を破るためにはふさわしいが、「識は非識」であることに注意していないと、観念論に陥ってしまう。<br>
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この意味で、[[ごほう|護法]](dharmapaala)の『[[じょうゆいしきろん|成唯識論]]』の立場とは大きく趣きを異にしている。
  
 外界に事物が実在するとみる他派からの批判に、一つひとつ反論することによって「一切はただ識のみである」という唯識派の根本命題を立証した書。22の偈頌(げじゅ)とそれに対する世親自身の註釈とから構成される。
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==テキスト==
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* [http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=1590_ 唯識二十論] 1巻、玄奘訳、[[たいしょうしんしゅうだいぞうきょう|大正蔵]]巻31
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* 『vijJaptimaatrataasiddhi』 Sylvain Lévi, Paris, 1925年
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* [[チベット]]訳 東北目録 No.113
  
 本書には「[[あらやしき|阿頼耶識]]」「[[さんしょう|三性]]」などの重要な用語はまったく認められないが、世親は他派への反証を通して間接的に「[[ゆいしき|唯識]]」を主張した。したがって「唯識」を前面に出したもう一つの主著『唯識三十頌』と相まって、はじめて世親の思想体系の全体が知られうる。
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==註釈書==
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* [http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=1591_ 成唯識宝性論] 5巻、[[ごほう|護法]]註、大正蔵、巻31
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==参考文献==
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* 四訳対照唯識二十論研究  宇井伯壽
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* 世親唯識の原典解明  山口益・野沢静証

2011年5月27日 (金) 09:19時点における最新版

唯識二十論

(viMzatikaa-vijJapti-maatrataa-siddhi) 1巻、世親造、玄奘

内容

『唯識二十論』は、仏教以外の学派や部派仏教や他の大乗仏教の立場から、唯識説に対する批判や疑問に答える形で、唯識説を明らかにしている。そのため、直接的に唯識説を体系付けて説明している『唯識三十頌』とは構成が異なっていることに注意しなくてはならない。
唯識説の根本は「諸法(すべての存在現象)は識にほかならない」という説である。しかし、世親は阿頼耶識も含めて、「識は非識を自性となす」(識の本質は無である)としている。つまり、識を実在と考えず、実在()は識を超えたものであるとみている。これを説明するために、本論では夢の喩えを使って説明するが、修行者(瑜伽行者)が誤まった実在の観念を破るためにはふさわしいが、「識は非識」であることに注意していないと、観念論に陥ってしまう。
この意味で、護法(dharmapaala)の『成唯識論』の立場とは大きく趣きを異にしている。

テキスト

註釈書

参考文献

  • 四訳対照唯識二十論研究  宇井伯壽
  • 世親唯識の原典解明  山口益・野沢静証