かく
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
覚
目がさめたようにそれまで知らなかったことを明らかに知る意から、涅槃をさとる意に用いて、菩提(bodhi 涅槃をさとった智慧)、或いは仏(buddha 覚者、さとった人)の訳語にあてる。ただし、旧訳では菩提を「道」、仏を「覚」とし、新訳では菩提を「覚」、仏を「覚者」とし、法と人とを分ける。
また、ものごとを感知する意から、おおまかに麁く尋ね求め(尋求)おしはかる(推度)精神作用(心所)を旧訳では「覚」という。新訳ではこれを尋(vitarka)という。
起信論での覚
『大乗起信論』では、万有の本体である阿梨耶識には覚と不覚との2義があり、覚には本覚と始覚との2覚があるとする。即ち万有の本体はもともと清らかな覚体(本覚)であるが、しかし無始以来の無明妄念によって覆われているから現実には不覚である。けれども修行して観智を生ずればこの不覚からめざめて心源を覚了するに至る。これを始覚という。始覚は覚の程度によって、次の四位に分ける。
1.究竟覚〔くきょうかく〕
この上ない覚知の意で、第十地の菩薩の覚知をいう。ただし一般には仏の覚知を究竟覚、無上覚、正覚、大覚という。
2.随分覚
第九地までの地上諾の菩薩の覚知は部分的であって不完全だから随分覚。
3.相似覚
十住・十行・十廻向(三賢)の菩薩および二乗の覚知は似てはいるが真を得ていないから相似覚。
4.不覚
十信までの凡夫で、悪業は苦果を招くという業果の道理を覚知しているから悪業は造らないが、いまだ煩悩を断つ智を起こさない者の覚知を不覚とする。
三覚
仏を覚と訳すのは、自らさとり(自覚)、他をさとらせ(覚他)、さとりのはたらきが窮まり満ちている(覚行窮満)からで、自覚は凡夫に対して、覚他は二乗に対して、覚行窮満は菩薩に対して、これらと異なることをあらわし、これを三覚という(前2者を二覚ともいう)。
覚の種類
独覚(縁覚)と大覚(仏)とを二覚または二覚者と名づける。
また菩薩の階位五十二位のうち第51の等覚と第52の妙覚(仏果)との2、或いは仏の智徳と断徳とを二覚という。
尋求推度<じんぐすいたく>する精神作用(心所)としての覚(尋)は欲界および初禅にのみあり、これにその性が善である善覚とその性が悪である不善覚(悪覚)とがある。欲覚(貪覚)・瞋覚(恚覚)・害覚(悩覚)を三悪覚または三不善覚といい、これに親里覚・国土覚・不死覚・族姓覚(利他覚)・軽他覚(軽侮覚)を加えて八覚ともいう。
離欲覚(遠離覚、出離覚、出覚)・無瞋覚(無恚覚)・無害覚(無悩覚)を三善覚といい、三悪覚に対する。無賦・無害の2覚を安穏覚ともいう。
また菩薩・縁覚・声聞の大力量の者が覚知し思念する8種の覚、即ち少欲覚・知足覚・遠離覚・精進覚・正念覚・正定覚・正慧覚・不戯論覚を八大人覚(大人八念)という。これも善覚である。
過咎
あやまち。とがめ。苦しいこと。
もし人、一心に生死の過咎、涅槃の安楽を観察することあたはずは、かくのごとき人は、また恵施・持戒・多聞なりといへども、つひに解脱分の法を得ることあたはず。 もしよく生死の過咎を厭患し、深く涅槃の功徳と安楽とを見ば、かくのごとき人は、また少施・少戒・少聞なりといへども、すなはちよく解脱分の法を獲得せん」と。 [以上、無量世において、無量の財をもつて無量の人に施し、無量仏の所にして禁戒を受持し、無量世に無量の仏の所にして十二部経を受持・読誦せるを、名づけて多の施・戒・聞となす。 一把の麨をもつて、一の乞人に施し、一日一夜、八戒を受持し、一の四句偈を読むを、少の施・戒・聞と名づく。 『経』(優婆塞戒経)に広く説くがごとし。〔往生要集、p.911〕
(73)辺地七宝の宮殿に 五百歳までいでずして みづから過咎をなさしめて もろもろの厄をうくるなり〔正像末和讃、p.612〕
注意:漢音では、過咎を「かきゅう」と読む