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パーリご

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

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パーリ語

pāli (P)

 パーリ語大蔵経。南方上座部に伝承された三蔵で、パーリ語で書かれており、今日もスリランカ・タイ・ミャンマー・カンボジアなどで聖典としての権威を保持する。経蔵(スッタ・ピタカ sutta-piṭaka)・律蔵(ヴィナヤ・ピタカ vinaya-piṭaka)・論蔵(アビダンマ・ピタカ abhidhamma-piṭaka)の三蔵からなり、その他に蔵外文献として註釈(アッタカター aṭṭhakathā)・史伝などの諸書を含む。
 経蔵は5部よりなり、律蔵は経分別・犍度部・付録を収め、論蔵は7論より成る。

 刊本としてはセイロン文字・ビルマ文字・タイ文字・デーヴァナーガリー文字による表記のものがある。また三蔵のすべてと蔵外文献の多くのローマ字による校訂本がロンドンのパーリ聖典協会 Pali Text Society より組織的に刊行されており、現在もその事業は続行されている。わが国ではパーリ語三蔵のすべてが南伝大蔵経全65巻70冊として和訳されている(1935-41)。
 また完訳ではないが英訳・ドイツ語訳・フランス語訳も多数行われている。

 釈尊在世当時に教団で用いられていた言語であるかどうかは不明ではあるが、おおよそそれに近い言語であっただろうと推定される。仏滅後200年ごろに記されたアショーカ王の刻文の解読に、もっとも有益であったので、パーリ語と同系列の言葉であろうと推定されている。
 パーリ語の起源については不詳であるが、現在のスリランカ(セイロン島)に伝わった正統派の伝承では、パーリ語とマガダ語を結び付けて、釈尊は活動の中心であったマガダ地方の方言を教団として使っており、それがパーリ語となったのではないかとしている。また、別の学者たちによると、マガダよりも先に優勢であったコーサラ地方の方言がパーリ語の基盤となったのではないかと推論している。言語学的にはどちらともいえず、特定の一地方の方言というよりも、ガンジス河中流域の一つの文化用語とでも言えるのではないか。
 パーリ語の最終形態が整ったのは、紀元前1世紀頃のことだと思われる。その頃に、聖典を新しく編集して、順序や文体、さらに内容を統一したと考えられる。上に述べたトゥリ・ピタカでは、同じような決まり文句が、時には数ページに亘って、まったく異なった状況の記事に現れたりしている。現存のパーリ語聖典が自然に集積されたものではなく、一度集められ、それらを一定の法則のものに編集されたものと考えられる。

 一口にパーリ語と言っても、新旧の違いが明らかに見られる。同じ経典でも比較的古い偈文と、比較的新しい散文の部分とがあり、そのそれぞれ区別がつけられる場合もある。つまり、初期の仏教教団の用語から由来していることは間違いない。しかし、今日伝わっているパーリ聖典に見られるテキストは、釈尊滅後400年頃に固定したものと考えられる