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たんねん

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

2011年2月1日 (火) 23:11時点におけるマイコン坊主 (トーク | 投稿記録)による版 (湛然)

湛然

[zhàn-rán] 711年-782年

 中国唐代の天台学僧で、智顗を初祖とする中国天台の第6祖

龍樹より数えて第9祖ともする

とされ、中興と呼ばれている。常州晋陵の荊渓(けいけい)(江蘇省武進県)の儒家出身で、俗姓は戚氏。儒学の教養を持って730年左渓玄朗(げんろう)に就き、20年間天台教観を学び、38歳で出家し、曇一に律を学び、開元寺で『摩訶止観』を講じた。玄朗滅後は天台教観の宣揚に努め、唐代成立の華厳教学、新しく伝来した法相唯識学を研究し、それら教学を意識しつつ、に対しても天台円教を鼓吹したので、日本近世の学者は天台学の一展開とも呼んだ。玄宗以下三帝の招請に応えず、江南各地で天台教学を講じ、晩年は天台山に帰り仏隴道場で入滅した。
 荊渓尊者、妙楽大師、伊人法師と呼ばれ、呉越王から円通尊者と追諡(ついし)された。

著作

 彼の著した『天台三大部』の註釈は現在まで天台学研究の必須の書となり、そのほか『維摩略疏』『止観義例』『止観大意』『止観捜要記』『金剛錍論』『五百問論』など著作は数多く,懺法類の註にまで及ぶ、智顗の著述の多くを註釈したので、初めて「記主」の呼称を与えられた。

弟子

 門下には、比叡山の最澄が受法した道邃(どうすい)・行満はじめ,普門・元皓・明曠・智度・法順・法(ぎょう)らのほか、師の碑銘を選した翰林学士梁粛など偉才が多い。