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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

華厳

華厳宗

 中国において、大乗経典の代表的な華厳経 を究極の経典として、その思想を拠り所として独自の教学体系を立てた。開祖は杜順(557-640年])、第2祖は智儼(602-668年)、第3祖は法蔵(643-712年)、第4祖は澄観(738-839年)、第5祖は宗密(780-839年)と相承されている。この中国の五祖の前に、2世紀頃のインドの馬鳴龍樹を加えて七祖とする。

 日本における華厳宗は、第3祖法蔵門下の審祥(しんしょう)によって736年に伝えられた。『華厳経』、『梵網経』にもとづく東大寺の大仏の建立(743-749年)され、明恵によって密教思想が取り込まれ、さらに凝然による教学の確立がなされた。

 華厳宗の本尊は歴史上の仏を超えた絶対的な毘盧遮那仏と一体になっている。菩薩の修行の階梯を説いた「十地品」、善財童子の遍歴を描いた「入法界品」などが有名。東大寺の大仏も本経の経主毘盧舎那仏である。

華厳経

 華厳経 は、サンスクリット語で「仏の飾りと名づけられる広大な経」(Buddhāvata.msaka-nāma-mahāvaipulya-sūtra)と呼ばれ、漢訳では「大方広仏華厳経」と言われる。本来、多くの独立した経典があり、3世紀頃に中央アジアでまとめられて現在の形態になったものと考えられている。漢訳中のいくつかはサンスクリット本が残っている。
 漢訳では、3種があり

  1. 六十華厳 60巻 仏陀跋陀羅(359-429年)訳 (大正蔵 9-395-788)
  2. 八十華厳 80巻 実叉難陀(652-710年)訳 (大正蔵 10-1-444)
  3. 四十華厳 40巻 般若(8世紀-9世紀)訳 (大正蔵 10-661-851) 前2本の入法界品にあたる。

教学

 時代的にも地域的にも広範なので、様々な変容がある。中心になるのは、この世界の実相は個別具体的なが、相互に関係しあって成立しており、無限に縁起しあっている。この実相を4つの法界に分け、仏のさとった実相のすがたを事々無礙法界といい、個々の現象の事法は重々無尽で相似関係にあるとする。また、華厳では仏の側から見るので、三性もまた唯識とは逆に仏から順に円成実性依他起性遍計所執性と説かれる。
 古来、華厳経 は仏のさとったままの言葉を記したもので、凡夫には理解しがたいと言われている。

善財童子

 華厳経 入法界品では、菩薩行の理想者として善財童子が描かれている。昔からこの有様を多くの絵や詩歌に描いている。日本では明恵上人高弁による善財童子の讃嘆が有名であり、また東大寺には華厳五十五所絵巻華厳海会善知識曼荼羅図などが現存する。東海道五十三次もこの話にもとづいて制定されたとも言われている。

華厳教学

 華厳宗の基本的・体系的な思想の総称で、それは根本において如来の海印三昧にうらづけられたものであるとされる。中国唐代の賢首大師法蔵(643-712)によって大成された。まず教判としては「五教十宗」が立てられる。
⑴ 小乗教
⑵ 大乗始教 本性が二乗である人は成仏しないと説く
⑶ 大乗終教 本性が二乗の人も一闡提も、ことごとく成仏すると説く
⑷ 頓教   段階的な修行をいわず、一念不生の境位がそのまま仏であるとする
⑸ 円教   一乗。一位が一切位であり、一切位が一位であり、信の満ちたところが究極の仏のさとりである
などと説く五教、および、
① 法我倶有宗 法も我もともに実在すると説く
② 法有我無宗 法の永遠の実在と無我を説く
③ 法無去来宗 現在のみの法の実在を主張する
④ 現通仮実宗 現在の法のなかで五蘊は実在するが十二処。十八界は実在しないと説く
⑤ 俗妄真実宗 世俗の法は仮のもので、出世間の法が真実であるとする
⑥ 諸法但名宗 我も法も仮に名づけられたもので、すべて実体はないとする
⑦ 一切皆空宗 一切の法はみな本来空であると説く
⑧ 真徳不空宗 一切の法は真如ないし如来蔵のはたらきとして現われるとする
⑨ 相想倶絶宗 ことばを離れた究極の境位を宣揚する
⑩ 円明具徳宗 法の無礙・自在のあり方を説く
以上の十宗である。
 このうち、はじめに五教についていえば、⑴には説一切有部などの部派仏教の思想、⑵には三論宗の空の思想と法相宗の唯識の思想、⑶には『起信論』や『楞伽経』の教説、および天台宗の思想、⑷には『維摩経』の教説、⑸には『華厳経』の教説、およびそれにもとづく華厳宗の思想、つまり華厳教学が配される。最後の⑸が以下の4教を包み超える最高・究極の教えとしておかれていることはいうまでもなかろう。
 また十宗のうち、①は犢子部などの思想、②は説一切有部などの思想、③は大衆部などの思想、④は説仮部などの思想、⑤は説出世部などの思想、⑥は一説部などの思想、⑦は五教のうちの大乗始教、⑧は終教、⑨は頓教、⑩は自宗の一乗別教をそれぞれ具体的には指している。この十宗の教判は、法相宗のが立てた八宗の教判を摂取し改訂したものであり、このことからも法蔵が法相教学を強く意識しながら、自宗の教判的立場を確立したことが知られる。ともあれ、法蔵はこの五教十宗の教判によって、他宗・他学派の教学に対する華厳教学の絶対的優越性を主張したのである。
 この教判において第五教・第十宗に配される華厳教学の中心的な思想は何か。華厳教学の綱要書とも称される『五教章』に従えば、それは、A.三性同異義、B.縁起因門六義法、C.十玄縁起無擬法、D.六相円融義の4種となる。このうち、A以外はすべて法蔵が師の智儼の思想を受けついで完成したものである。以下、それらの内容を簡単に紹介しよう。  まずAは、法相宗を含む唯識系の諸派において説かれる①遍計所執性(分別性)、②依他起性(依他性)、③円成実性(真実性)の三性の教説をおもに『起信論』によりながら改革したもので、③に不変と随縁、②に似有と無性、①に情有と理無の二義を立て、三性が一面において同一であり、一面において相違すること、さらに「真は妄末を該ね、妄は真源に徹する」ことを明らかにする。
 次にBは、仏教の基礎的教説の一つである因縁説(縁起説)を新しく展開したもので、『摂大乗論』の6種の一切種子の思想から一定の示唆を得、「因」の側面から縁起の事態がもつ限りない深さを捉えようとする思想である。六義とは、①空有力不待縁、②空有力待縁、③空無力待縁、④有有力不待縁、⑤有有力待縁、⑥有無力待縁である。
 次にCは、究極の縁起のあり方、すなわち、一切の事物・現象は真実そのものの現われであり、相互に重重無尽に関わりあうというあり方(法界縁起)を総合的に明らかにしようとするものであり、①同時具足相応門、②一多相容不同門、③諸法相即自在門、④因陀羅網境界門、⑤微細相容安立門、⑥秘密隠顕倶成門、⑦諸蔵純雑具徳門、⑧十世隔法異成門、⑨唯心廻転善成門、⑩託事顕法生解門の十玄門によって示される。なお、『探玄記』の十玄門はその名称と順序がこれと同一ではない。特にそこで⑨が落とされ、代わりに広狭自在無礙門が入っていることは、法蔵がその円熟期において、如来蔵縁起説の立場を完全に離れようとしていたことを示唆するといえよう。
 第四のDは、現象的な存在のもつ縁起性を対応する三種の見方、すなわち、総(全体性)と別(個別性)、同(同一性)と異(相違性)、成(生成性)と壊(破壊性)のすがた(相)において捉えるものである。この思想は、『十地経』に端を発し、慧遠・智儼を経て、法蔵によって大成される。 『五教章』の「橡〈たるき〉と舎〈いえ〉」のたとえによってその要点を記せば、①全体として舎であることが総相、②橡などの部分が別々であることが別相、③それらが合体して舎を作りあげていることが同相、④しかしながら、同時にそれらがみな独自のすがたをもち、相互に区別があることが異相、⑤それらが舎を作りあげることが成相、⑥しかもそれらが根本において不作為であることが壊相である。最後に、以上の縁起の思想と深く関連するものとして「性起」の思想がある。これは、『華厳経』(六十華厳)如来性起品にもとづいて形成された思想であるが、原典からは大きく飛躍したものとなっており、性起は「真実そのものの生起」と解釈されて、縁起の真相を示すものとされる。ちなみに、智儼において、無心・無為を説く曇遷の『亡是非論』が「性起に順ずる」として高く評価され、全文引用されていることは、思想史的にきわめて注目される。

展開

 華厳宗は、初祖杜順(557-640)によって宗派的基盤が固められ、第二祖智儼によってその教学が基礎づけられた。そして、このうえに、法蔵によって上述のごとき教学が確立されたのである。また、智儼の思想は、法蔵と同門の義湘(625-702)によって新羅に伝えられ、独自の新羅華厳教学が形成されるにいたる。法蔵の門下からは、多くのすぐれた人材が巣立ったといわれるが、すでに彼らのなかに華厳教学の新しい動きを認めることができる。すなわち門下の一人である文超は「十観」を宣揚するなど、華厳教学のいわば主体化を強く志向したことがうかがわれ、また同じく門下の慧苑はおもに『宝性論』にもとづいて①迷真異執教、②真一分半教、③真一分満教、④真如分満教の四教の教判を新たにうちだしているからである。この慧苑の教判をきびしく批判しつつ、荷沢禅や天台性悪説をとりいれ、実践面を強化するという方向において華厳教学を改革し、華厳宗の第四祖となったのが澄観(738-839)である。そして、この傾向をさらに押し進め、明確な教禅一致論を主張したのが第五祖宗密(780-841)である。しかも、宗密は、『華厳経』よりもむしろ偽経の『円覚経』をよりどころとしているから、華厳教学はこの時点において一定の質的転換をはたしたと見ることもできる。この澄観・宗密の思想は、その後の華厳教学の性格をほとんど決定づけた。
 「中興の教主」と称される浄源(1011-88)をはじめ、のちの華厳宗の人びとは、『起信論』の一層の重視という一般的傾向を有しながらも、基本的にはほぼ彼らの教学の祖述に終始したのである。けれども、一方において華厳教学が、宋代以後、宗派的な枠を越えて禅者や念仏者に少なからざる影響を与え、彼らの融合的思惟を培っていったことを忘れてはなるまい。たとえば宋代の本嵩は、杜順撰と伝えられる『法界観門』の三観(真空観・理事無礙観・周遍含容観)を禅の究極的世界を表わすものとしている。

日本における華厳教学

 日本に華厳教学が伝えられたのは、736年(天平8)7月、唐の道璿によってであるといわれる。しかし、華厳教学の実際の伝播は、同年12月、法蔵に学んだ新羅の審祥が良弁の要請を受け、金鐘道場において『華厳経』の講義を行なったことに始まるといってよかろう。以来、東大寺を根本道場として、長く華厳教学の研究と宣揚がなされていく。そして、華厳中興の祖と称された光智のもとから、華厳宗は東大寺系(本寺派)と高山寺系(末 寺派)の二流に分かれ、しだいにそれぞれに特色ある伝統を作っていくが、鎌倉時代にいたって前者に凝然(1240-1321)が、またこれにわずかに先んじて後者に高弁(1173-1232)が出るに及び、それぞれの教学的立場が確立された。凝然の東大寺教学は、法蔵と澄観の教学に基礎をおくもので、これが日本華厳宗の正系とされた。一方高弁は、法蔵と同時代の孤高の華厳経研究者、李通玄(635-730, あるいは646-740)の思想や密教思想の積極的な摂取を試み、仏光観の実践などの新しい方向を提示した。
 さらに江戸時代には、鳳潭(1657-1738)が出て澄観以来の華厳教学の伝統を批判し、智儼・法蔵の立場に帰るべきことを主張した。また普寂(1707-81)は、鳳潭の説をとりいれながら独特の同別二教論などを提唱した。けれども、彼らの近世的批判精神に立つ諸研究は、教学の主流からは非正統的なものとしてしりぞけられた。