さゆう
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
作用
用のこと。力用ともいう。ものに具わるはたらきのこと。無為法には作用がなく、また有為法でも現在法にのみ作用があって、過去、未来の法には作用はない。
インド哲学
ものごとが生ずるというのは、ただ任意に生ずるのではなく、何がしかの特定の原因があって生ずる。ということは、原因が何がしかの作用を発揮して結果を生ぜしめるのだと考えられる。まず、原因が発揮する作用として、原因の力能(śakti)があげられる。たとえば、麦の種から生ずるものは必ず麦の芽であって、稲の芽ではない。麦の種は、麦の芽を生ずる力能をもっているが、稲の芽を生ずる力能はもっていない。この点は、因果について因中有果論をとなえるサーンキヤ派、ヴェーダーンタ派、因中無果論をとなえるニヤーヤ・ヴァイシェーシカ派、ミーマーンサー派のすべてが一致するところである。ただし、因中無果論をとなえる学派のうち、ニヤーヤ・ヴァイシェーシカ派が、原因の力能というのは、原因たるものごとの本性(svabhāva)そのものにほかならないとするのに対して、ミーマーンサー派は、原因の力能は、原因たるものが属するパダールタ(カテゴリー)とは別の、独立のパダールタを構成するという。また、ヴァイシェーシカ派のなかでも、『勝宗十句義論』の作者は、原因の力能も、さらには、麦の種が稲の芽を生ぜしめないという場合のような、原因の無力能も、独立のパダールタであるとする。
また、ものごとの原因というものは、必ずしも一つであるとはかぎらない。ただ、そのなかでも、その結果にとって必要不可欠、非共通的な原因を特に手段(karaṇa)と呼ぶ。ニヤーヤ・ヴァイシェーシカ派によれば、たとえば、樹を切る場合、原因としては、樹を切る人などさまざま考えられるが、樹の切断という結果にとって非共通的な原因は斧である。そこで、この場合、斧が手段であるとされる。しかしなお、斧がただそれだけで樹の切断という結果をもたらすのではない。斧と樹の切断とのあいだには、斧と樹との結合がある。このような、手段と結果とを結びつけるもののことを、ニヤーヤ・ヴァイシェーシカ派では、「作用」(vyāpāra)、あるいは「中間作用」(avāntara-vyāpāra)と呼び、「甲(手段)より生じ、甲より生ずるもの(結果)を生ぜしめるもの」と定義する。しかし、ラグナータシローマニをはじめとする後期の人びとは、従来の作用にあたるものこそが手段であり、従来作用とされていたものはただの原因にすぎないとした。そのほか、「作用」と考えられるものとして、業(karman)やサンスカーラ(saṃskāra)などがある。業もサンスカーラも、行為と、そして、その行為が後に残す何らかの潜在的な力、作用のことを指す。この力ないし作用が、その行為の主に何らかの結果をもたらすとされるのである。