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まかえんくうもん

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

2025年2月12日 (水) 11:56時点におけるマイコン坊主 (トーク | 投稿記録)による版 (摩訶衍空門)

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摩訶衍空門

 『大智度論』に説かれる、大乗仏教の説く空門のことである。「すべての存在はその本性からして常にそれ自体で空である」ということである。けっして、〔無知を取り除き、真理に到達するために仮りに設定される〕知恵という方法論的観点(智慧方便)から存在を観て空であるといっているのではない。
 たとえば、仏はスプーティのために、物質的存在()について次のようにお説きになっている。

 物質的存在はそれ自体で空である。感覚(受)、表象(想)、意欲(行)、思惟(識)もそれ自体で空である。十二のカテゴリー(十二入)、十八のカテゴリー(十八界)、十二の因果の系列(十二因縁)、三十七の実践徳目(三十七道品)、如来だけがもつ十種の知力(十力)、如来だけがもつ四つのおそれなき自信(四無所畏)、仏だけがもつ十八種の特性(十八不共法)、[[[だいじ|大慈]]と大悲、全知者性、さらに無上にして完全なるさとり(阿耨多羅三藐三菩提)に至るまでのすぺてのものは、それ自体で空である。

 「罪過もなければ福徳もない」と主張する者たちは、現在世が存在しないと主張することはない。ただ未来世は存在しないと主張するだけである。かれらは、「草や木が勝手に生えて、勝手に枯れるように、人間も生まれたり死んだりするだけである。すぺてはこの現在においてのみのことであって、再び未来世に生まれ変わるなどということはない」と主張する。しかしながら、かれらは、自己の内部や外の世界に存在しているものすぺてがもっている本性(自相)は皆空であるということを観ることもなければ、知ることもない。この点でわれわれとは違うのである。