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ろんべん

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

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良弁

689年 - 773年。奈良時代の華厳宗法相宗の学僧。東大寺の開山。百済系渡来人の後裔。出身地は近江国(滋賀県)あるいは相模国(神奈川県)と伝える。

 義淵に師事して法相教学を学び、728年(神亀5)に聖武天皇の皇太子基(もとい)親王の夭死によって建てられた金鐘山房(寺)の智行僧(ちぎょうそう)の一人に選ばれた。
 740年(天平12)に大安寺審詳(審祥)を講師として『華厳経』の研究を始め、743年正月には『金光明最勝王経』の講説を行うなど、仏教界を先導し、当山寺を大和国分寺、さらに盧遮那大仏造立の地となる機縁をつくった。
 大仏造像にあたっては佐伯宿禰今毛人(さえきのすくねいまえみし)や行基などとともに聖武天皇を助け、752年(天平勝宝4)4月の大仏開眼供養会のあと、5月1日に初代の東大寺別当に任ぜられた。
 伝戒師鑑真一行が東大寺に詣でたときはこれを迎え、聖武上皇の死去にあたっては生前の看病の功により、また仏教界の領袖として大僧都となり、763年(天平宝字7)9月に僧正の極官に補せられた。
 晩年には石山寺の造営にも関係し、宝亀4年閏11月16日に85歳で没した。

 現今東大寺開山堂には、1019年(寛仁3)11月に有慶によって造像された良弁坐像が安置され、その右手に持つ木造如意は生前所持のものと伝え、奈良時代の製作にかかるものである。