たんねん
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湛然
[zhàn-rán] 711年-782年
中国唐代の天台学僧で、智顗を初祖とする中国天台の第6祖
- 龍樹より数えて第9祖ともする
とされ、中興と呼ばれている。常州晋陵の荊渓(けいけい)(江蘇省武進県)の儒家出身で、俗姓は戚氏。儒学の教養を持って730年左渓玄朗(げんろう)に就き、20年間天台教観を学び、38歳で出家し、曇一に律を学び、開元寺で『摩訶止観』を講じた。玄朗滅後は天台教観の宣揚に努め、唐代成立の華厳教学、新しく伝来した法相唯識学を研究し、それら教学を意識しつつ、禅に対しても天台円教を鼓吹したので、日本近世の学者は天台学の一展開とも呼んだ。玄宗以下三帝の招請に応えず、江南各地で天台教学を講じ、晩年は天台山に帰り仏隴道場で入滅した。
湛然は終生天台の振興に努め、天台の教観の深旨を発揚し、多数の著作をなし、72歳で天台山に入寂した。湛然は三大部にすべて註釈を書いた。智顗は『摩訶止観』ではじめて「一念三千」の法を説いたが、これを三諦円融一心三観の説と並べて、その精義を発揮したのは湛然の功績であるという。さらに『起信論』の真如の不変と随縁の説を天台教学に応用したのも湛然である。この説は、趙宋天台、日本天台に継承せられた。さらに「五時八教」の教判をもって『法華経』の勝れた点を示し、他宗派に対して天台宗の教理的独立を果したのも湛然であった。
荊渓尊者、妙楽大師、伊人法師と呼ばれ、呉越王から円通尊者と追諡(ついし)された。
著作
彼の著した『天台三大部』の註釈は現在まで天台学研究の必須の書となり、そのほか『維摩略疏』『止観義例』『止観大意』『止観捜要記』『金剛錍論』『五百問論』など著作は数多く,懺法類の註にまで及ぶ、智顗の著述の多くを註釈したので、初めて「記主」の呼称を与えられた。
弟子
門下には、比叡山の最澄が受法した道邃・行満はじめ,普門・元皓・明曠・智度・法順・法(ぎょう)らのほか、師の碑銘を選した翰林学士梁粛など偉才が多い。