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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

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 漢訳仏典において「罪」という語が宛てられるインド語(以下、パーリ語)には種々のものがある。

aapatti

 戒律を破ることによって生ずる客観的な罪。

accaya

 aapattiを自らの行為として主体的に反省し認識する場合にも,その悪は罪(accaya)といわれる。
 これらはいわば、前者が倫理的・法律的な罪であり、他律的な罪であるのに対し、後者は宗教的な自律的に自覚された罪である。これらはともに悪なる行為であるから、罪悪・罪業(paapa,akusala,asaddhamma)と呼ばれ、その根本要因は煩悩であるから、煩悩もまた罪(罪垢、vajja,saavajja,kibbisa)として把握され、これらは苦しみをもたらすから、その点を重視して罪(福に対する罪、罪禍、agha,adhamma)と呼ばれる。

出罪

 大乗仏教が小乗と呼んだ説一切有部などの上座部系仏教では、衆生の心性は本浄に非ずと見たから、煩いの少ない出家生活を尊び、他律的に戒律を厳守して、一つ一つの煩悩から遠ざかり、徐々に悟りに近づく(漸悟)という立場をとった。もし罪を犯した時には、他の比丘・比丘尼に告白し懺悔して、所定の罰を受けることによって出罪することになっていたが、この告白懺悔自体がいわば罰の一つであり、したがって罪も出罪も他律的であり、形式的であったということができる。

心性本浄説

 これに対して大衆部系の仏教では心性本浄説を展開させ、一切の衆生に仏性の存することを認め、修行によっていつかは浄らかな心の本性が顕現すると考えた。そのような傾向の思想が発展して、大乗仏教のうちの若干の流派では、罪の本体もであると考えて、究極的な立場からは煩悩はそのまま菩提であるとし、煩悩を断じないですみやかに悟りを得る(頓悟)という立場をとった。またその教えはむしろ在家信者の方に重点が移されたため,他律的な戒律はそれほど重んじられなくなり、むしろ自らの犯した罪は、仏と向きあったところで(超越的な次元にふれるところで)、自らが自覚的に懺悔告白するということが中心となった。
 この傾向は中国・日本に至り、末法という時代認識とともに更に深められ、とくに、罪悪は自己に内在することをつきつめたところに、阿弥陀如来の本願力による救済が自覚されるという他力本願の教えが形成されるに及んで、一大転回を見ることになった。