くきょう
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
究竟
サンスクリット語の「paryanta」(極限)、「atyanta」(無限の、完全な)、「niṣṭha-√gam」(究極に到る)などの漢訳語。究極(の)、極め尽くすの意で善悪いずれにも用い、形容語としても動詞としても用いる。
ちなみに、究極の悟りを究竟覚(かく)〔大乗起信論〕、究極の寂滅を究竟涅槃〔法華経(方便品)〕という。
また天台教学では、円教の修行の階位を表す六即のうち最後の、完全な悟りの位を究竟即〔摩訶止観(1下)〕とよぶ。
- われ仏道を成るに至りて、名声十方に超えん。究竟して聞ゆるところなくは、誓ひて正覚を成らじ。 〔無量寿経 p.24〕
日本語では、すでに中世から、きわめてすぐれたさまを形容する一般語となり、大変好都合なとか、きわめて強力なの意に用いられた。
atyantam (S)
徹底的に、完全に、最終的に、最後の段階まで、という意味の副詞句。
其の心、究竟して一切の煩悩から解脱す。 世俗道で以っては煩悩を滅すること究竟ならず。
atyanta: atyanta-niṣṭha: ātyantika: niṣṭha-gamana (S)
完成された、徹底的な、最終的な、究極のという意味の形容句。
先に戒を受持し漸次乃至、究竟の涅槃を獲得す。
abhiniṣpatti: niṣṭhā: parisamm-āp: parisamāpti (S)
成就する、完成する、成し遂げること。
一切の事業を究竟す。 彼の殺を究竟する身業を殺生と謂う。 句は義を詮わすことを究竟す。
niṣṭhā (S)
修行が完成・成就すること。→究竟位
究竟に到った地に住する菩薩。 見道位の後に転依を円満し乃至究竟を証得す。